預言者ムハンマド伝(1/12):預言者ムハンマド以前のアラビア半島の状況

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当時のアラビア半島には3つの影響力が存在していました。北部では(キリスト教の)東ローマ帝国と(ゾロアスター教の)ササン朝ペルシャの二大帝国が絶え間ない闘争に明け暮れつつも力の均衡を保っており、北部のアラブ人たちは時にはこちら、また時にはそちら、という風に流動的な盟約を結びつつ、分裂して暮らしていました。


一方南部では、その乳香と没薬の芳香によってローマ人たちに‘幸福のアラビア’と呼ばれていた土地(主に現在のイエメンとサウジアラビア南部)が広がり、その価値は非常に魅力的でした。エチオピアの統治者ネグスによるキリスト教への改宗は、彼の国と東ローマ帝国との同盟をもたらしました。6世紀初頭にエチオピア人がこの肥沃な地の所有権を手に入れたのも、東ローマ帝国による承認によるものです。南部の人々は無情な征服者による没落以前、アラビア半島中部の砂漠地帯を隊商貿易によって開拓しており、諸隊商のガイドと諸オアシスにおける交易所の開設の役目を果たしていたベドウィンたちの生活に秩序をもたらしていたのです。


これらの人々の象徴が乳香の木であれば、乾燥地帯のそれはナツメヤシの木でした。一方の手には贅沢品の香料があり、そしてもう一方の手には最低限必要な食料があっただけだったのです。南部のある詩人が ‘鳥の歌声は聞こえず、草木が茂ることもない’ と詠んだように、ヒジャーズ地方(アラビア半島西部)に魅力的な資源があるとは、誰一人として思いもしなかったことでした。こういった理由からヒジャーズの諸部族は侵略や征服を経験したことがなく、彼らは誰かを‘ご主人さま’と呼ぶよう強いられたこともありませんでした。


貧しさは彼らの保護者でしたが、彼らは自分たちを貧しいとは感じなかったでしょう。貧しさを感じるには裕福な者への嫉妬が必要ですが、彼らは誰をも嫉妬しませんでした。彼らの裕福さは自由、名誉、高貴な祖先、そして彼らが唯一知っていた芸術である詩の中にあったのです。私たちが現在口にする‘文化’とは、全てこの媒体に凝縮されていました。彼らの詩は勇気や自由を讃美し、友を称え敵を嘲り、部族仲間の勇敢さと女性の美しさを賞揚し、それらは焚き火の側、あるいは永遠に続くかのような広い砂漠と青い空の下で詠唱され、地上における不毛の地を永遠に旅する人々の偉大さを証言していたのです。


ベドウィンたちにとって、言葉は剣と同じような強さを持っていました。敵対関係にある二つの部族が戦闘において対峙する時は通常、双方が最も優れた詩人を選出して先陣に立たせ、自陣営の勇敢さと崇高さを称え、敵を中傷させるのです。そして最も優れた戦士同士の一騎打ちが主要であるこのような戦いは、私たちが今日理解する戦闘というよりも、名誉を獲得するための競技のようなものでした。どんちゃん騒ぎや自画自賛、ひけらかしなどの要素も加わり、近代的戦争よりもずっと犠牲者は少なくて済んだのです。それは戦利品の分配による著しい経済効果をもたらす役目も果たしました。また戦勝者が優位性を誇示することは、名誉の概念に反することでもありました。一方が敗戦を認めると、双方の戦死者が数えられ、勝利した部族側は事実上の賠償金を敗戦した部族側に支払うことによって部族間の相対的な力関係は健康的なバランスを保っていたのです。こういった様式と、文明化された戦争の差異には目を見張るものがあります。


しかしながらその当時のマッカは全く別の理由による重要性を持っており、それは現在も尚変わらず続いています。そこには人類が唯一の神を崇拝するために設立された最初の家であるカアバ神殿が建っているのです。古代のカアバ神殿は、この小さな世界の中心であり続けました。ソロモンがエルサレム神殿を建てる1000年以上も前、彼の先祖アブラハムは長男イシュマエルの助けを借りて、古代から存在した基礎の上に壁を建立したのです。有力部族クライシュ族の首領だったクサイイは、そこに定住しました。ここがマッカ(旧称バッカ)の街だったのです。カアバ神殿の側にはザムザムの泉が湧いており、その起源はアブラハムの時代にまで遡ります。この泉こそが子供だったイシュマエルの命を救ったのです。バイブルにはこう記されています:

 “神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った:‘ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。’神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。”(創世記 2117−20)


または、詩編にはこうあります:

 “彼らは乾いたバッカの谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。”(詩篇 84:6)


マッカの発展を促した当時の状況として、そこが大きな商業地であったことが挙げられます。ペルシャとローマの戦争は北方の東西交易路を閉ざしており、アラビア南部の影響力と繁栄はエチオピア人たちによって破壊されていました。更にマッカは、巡礼の中心地としての役割でその名声を高め、またクライシュ族はカアバの守護者として両方の利点を享受していたのです。当時、アブラハムの息子イシュマエルの末裔であるアラブ人としての彼らの高貴さ、更に富と精神的権威の両立は世界の他者のそれと比べられた時、太陽の輝きに対する星々のきらめきに例えられていました。


しかし、偉大なる諸預言者の時代からの長い時の流れと半島の不毛な砂漠地帯による隔離は、偶像崇拝の興隆を許してしまいました。彼らは諸々の神による最高神への執り成しを信じ、崇拝儀式によってそれらの神々が、彼らの祈りを最高神へ届けてくれる力を持つと信じていたのです。全ての地域と諸部族、そして実に全ての民家には彼らの小さな‘神々’がありました。アブラハムによって唯一、真実の神を崇拝する目的で建立されたカアバ神殿とその内部、及びその周辺には360体もの偶像が設置されていたのです。アラブ人たちが神への敬意を払ったのは偶像に対してのみには留まらず、あらゆる超自然的存在に対してもまた同様に向けられました。彼らの間には諸天使が神の娘たちであるという信仰や、飲酒や賭博が蔓延していました。更には女児殺し、新生女児の生き埋めは当時の一般的な慣行だったのです。