預言者ムハンマド伝(4/12):マッカでの迫害

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初期の改宗者

預言者としての使命における最初の数年間、預言者ムハンマドは家族と親密な友人たちにのみ宣教をしました。最も最初に改宗した女性は彼の妻ハディージャであり、最初に改宗した未成年は彼の従兄弟であり彼の後見を受けていたアリー、そして最初に改宗した奴隷は彼に仕え,その後解放されたゼイドでした。彼の旧友アブー・バクルは、自由成人男性としては最初の改宗者です。後に預言者は彼に関してこう述べています:‘誰でもイスラームに呼びかけられると最初は躊躇するが、アブー・バクルだけは例外だった。’


その後、公に偶像崇拝を禁じ、布教する命令が神によって下されました。当初はクライシュ族の長老たちもこの‘奇妙な集団’を無視し、ムハンマドを自己欺瞞に陥った悲しい事例であるという位に見なしていましたが、徐々に彼の布教に貧者や困窮者を中心とした人々が応え始めると(それゆえ破滅的であるとみなされたのでしょう)、マッカの宗教とその繁栄への驚異であると捉え始められたのです。しかし、彼らは真っ向から対立することを望んではいませんでした。彼らの権力はその結束性に大きく依存しており、部族間の抗争によって分裂していたヤスリブ(現在のマディーナ)に起こっていたことの厳然たる例は彼らをより警戒させ、迫害の好機をうかがわせたのです。さらに当時の部族社会では、例えその一員が部族全体にとって好ましくない者であったとしても、もしも他者から攻撃を受けた場合には彼を保護しなければならない慣習上の義務があったため、ハーシム家は断固として彼を擁護しました。従って彼ら(クライシュ族)は中傷作戦に出ました。それは暴力につきものの責任が伴わないため、真実を封じ込めるのに最も効果的な武器だったのでしょう。当時のムハンマドの庇護者アブー・ターリブが彼の布教に答えなかったのは、自分と部族の安全のためでした。ムハンマドは言いました:‘叔父よ、例え彼らが私の右側に太陽、左側に月を持って来たとしても、私は神が成功をもたらしてくれるまで、死ぬまで自分の目的を断念する意志はありません。’アブー・ターリブは溜息をついて言いました:‘私の甥よ、私はあなたを見捨ぞ。


ムハンマドの影響力が広まり、クライシュ族の長老たちの主導権に傷が付き、彼らの部族内に分裂が見られるようになると、月を追うごとにマッカの緊張感は増して行きました。そしてこの兆候として啓示が増え、その内容にマッカの金権政治の冷淡さに対する弾劾、彼らの貪欲さの指摘などが含まれるようになってくると、支配層にとって更に危険なものとなりました。やがて対立はアブー・ジャハルとアブー・ラハブ、そして後者の義兄弟であり、彼らより若く才能に溢れ、計算高いアブー・スフヤーンによって率いられるようになりました。ある日、彼らと中立の立場だったムハンマドの叔父ハムザが狩りから戻って来ると、彼は彼の甥に対する中傷を耳にしました。それに酷く腹を立てた彼は真っ先にアブー・ジャハルの元を訪れ、彼の頭を弓で叩き付け、その場でイスラームへの改宗を表明したのです。


迫害の始まり

預言者としての使命開始から3年目が経過した頃、預言者に“立ち上がり、警告せよ”という命令が下され、公での宣教が開始され、神の輝かしい創造に対する偶像崇拝という卑劣で愚かな行為の非難がさ行われ始めました。彼らの神々が非難されると、クライシュ族は遂に積極的な敵対行為を始め、ムハンマドの貧しい教友たちを虐げ、嘲笑し、侮辱したのです。彼らがムハンマドの殺害をためらったのは、彼の出身部族による血の復讐を恐れていたのでしょう。クライシュ族はムハンマドの教えを嘲り、その追従者を落胆させるためには何でもしましたが、預言者は力強い警告と嘆願を続けたのです。


アビシニアへの避難

布教初期4年間の改宗者たちの大半は、そういった迫害から身を守ることが出来なかった弱い立場にある者たちでした。彼らが耐え忍んでいた凄惨な迫害に対して、可能な者は一時的にアビシニア(現在のエチオピア)へ移住することが預言者によって勧められました。そこには誰であれ良い待遇をもって迎えることで知られた、キリスト教徒のネグスという‘公正なる王’がいたからです。西暦614年、約80名の改宗者たちはそのキリスト教国家に避難しました。


しかしこの一見すると他国勢力との同盟にも見える出来事にマッカの人々はさらに激怒し、ムスリムたちの引き渡しを求める使節団をネグスに送りました。そこでは法廷において大きな議論が交わされました。しかしムスリムたちが、彼らがキリスト教徒と同じ神を崇拝しているという事実を説明し、それから聖母マリアに関するクルアーンの節を朗誦すると、ネグスは涙してこう言ったのです:‘実にこれはイエスがもたらしたものと同じ源泉を共有するものだ。’こうしてムスリムたちは勝利を勝ち取ったのです。


こうした迫害や避難にも関わらず、ムスリムの数は増え続けました。クライシュ族の懸念は頂点に達していました。全アラビア半島の聖地であるカアバ神殿における偶像崇拝は、彼らにとっての保護そのものでした。マッカの外から多くの巡礼者が押し寄せる巡礼期になると、彼らはありとあらゆる道筋に、彼らの中で宣教を行なう‘狂人’‐ムハンマドのこと‐に対する警告を行ないました。彼らは、もし預言者が彼らの神々を認め、それらに神の仲介者としての地位を与えるよう宗教に変更を加えるのであれば、イスラームを認めるという妥協案も画策しました。彼らの神々への攻撃を阻止する見返りとして、彼らは王位の提供も約束したのです。しかし預言者ムハンマドの断固たる拒否は、その交渉における彼らの努力を頓挫させました。


ウマルの改宗

マッカで最も恐れられていた若者の一人、ウマル・ブン・ハッターブの改宗も特筆すべき重要な出来事です。彼が生まれ育った教えとは正反対の新しい宗教が収めつつある成功に激怒した彼は、それがもたらすであろう結果をも熟慮することなく、ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)の殺害を誓ったのです。しかし彼はそうする前に、まず自分の家族がどうなっているか確かめるよう促されました。彼の妹とその夫はイスラームに改宗していたのです。彼は彼らの家へと飛んで行くと、彼らが‘ター・ハー章’と呼ばれる章を朗誦しているのを発見しました。そして彼の妹がイスラームへの改宗を明言すると、彼は怒りのあまり彼女を殴ってしまいました。彼はすぐに自分が行なった過ちに恥じ入り、彼らが何を朗誦していたのかを尋ねました。彼女に促され、自らの身体を洗浄した後にクルアーンのテキストを手にした彼は、それを読んで突然の変化を感じました。クルアーンの言葉は彼を永久に変えたのです。彼は直接ムハンマドの元を訪れ、すぐにイスラームを受け入れました。


これらの男たちはその高い社会的階層において、攻撃を受けるには重要過ぎる存在でしたが、新しく改宗したムスリムの大半は貧困層か奴隷でした。宗教を破棄させるために貧者は打たれ、奴隷は拷問されましたが、ムハンマドによる彼らの保護には限界がありました。


あるとき、ビラールという名の黒人奴隷ムスリムが裸にされ、灼熱の太陽の下、地べたに括り付けられ、胸には重い石を置かれ、渇きで死ぬまで放置されていました。彼は拷問から解放される代わりに、彼の宗教を放棄するよう多神教徒たちから強いられていましたが、彼の回答は‘アハド!アハド!’(神は唯一なり!神は唯一なり!)だったのです。彼が正に瀕死の状態だった時、アブー・バクルが彼を見つけ出し、法外な身代金を支払って彼を解放したのです。彼はムハンマドの家で健康を取り戻すまで介護され、最も卓越し、愛された教友の一人となりました。後に、いかにして人々に礼拝時間を知らせるかという議論がなされた時、ビラールはイスラームにおける最初のムアッズィン(ムスリムの礼拝場から声高に礼拝の呼びかけを行なう者)となりました。彼は痩せて背が高く、力強い声の持ち主でした。彼はふさふさした灰色の頭髪を持つカラスの顔をした男と呼ばれ、拷問の際に太陽によって焼き尽くされ、唯一神への愛、そして唯一神の使徒への愛だけが残った男と呼ばれました。

 

ボイコット文書の壊滅

あらゆる面で行き詰まっていたマッカの少数独裁者たちは、アブー・ジャハルの指揮によってハーシム家全体のボイコットを宣言する公式文書を発行しました。彼らがムハンマドを追放するまで彼らとの商業取引、婚姻関係の一切を禁じる、というものでした。それから3年間、預言者はその親族と共に彼らの拠点である峡谷の中に閉じ込められた状態となりました。


そんなある時期、一部の良心的なクライシュ族が旧友、旧隣人へのボイコットにうんざりし、カアバ神殿の中に放置されていた公式文書を再び審議にかけることに成功しました。その文書を取り出してみると、全ての文章が白蟻によって食い尽くされていましたが、ビスミカッラーフンマ(‘神よ、あなたの御名において’)という言葉だけが残っていました。長老たちがその驚異を目にしたとき、ボイコットは廃止され、預言者は再びマッカ内を自由に行き来出来るようになりました。しかしその間、彼の布教に対する反対派は勢力を強めていました。彼のマッカにおける布教は著しくなく、ターイフの町での布教の試みも失敗に終っていました。彼の使命は思うように進展しませんでしたが、巡礼期になるとある小さな一団が喜んで彼の話しを聞きに来ました。