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預言者ムハンマド伝(6/12):預言者のヒジュラ(移住)
ヒジュラ(西暦622年、9月23日)
一方、預言者は少数の親近者と共に、ヤスリブのムスリムたちと合流出来る時期を待っていました。彼は神の啓示による指令が来るまでそれが出来ずにいましたが、ある日遂にその啓示が下されました。彼は自分の外套を甥のアリーに渡し、彼の寝床で寝るよう指示しました。そうすることにより、誰かが捜索に来た際には彼がまだそこにいると思わせたかったのです。暗殺者たちは昼夜問わず、彼が家から出て来次第、襲いかかる予定でしたが、彼は彼らがアリーを襲うことはないことを知っていました。暗殺者たちは、預言者ムハンマドが密かに家を抜け出した際、既に家の包囲を開始していました。彼はアブー・バクルの家へ行って彼を呼び、二人は追跡が止むまで砂漠の丘陵地帯にある洞窟に身を隠しました。アブー・バクルの息子と娘、そして牧夫は日が暮れると彼らのもとへと食料を持ち込み、情報を伝えました。一度は、彼らのもとにその会話が聞こえる程にまでマッカの追跡隊が接近して来ました。アブー・バクルは恐れて言いました:“神の使徒よ、もし彼らの一人が足元に目をやれば、我々を発見してしまいます!”預言者は言いました:
“その3人目として神がついている2人に関してどう思うか?恐れてはならない。神は我々と共におられるのだ。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
追跡隊が彼らのもとから遠ざかると、アブー・バクルはラクダと案内人を夜間の内に調達し、彼らはヤスリブまでの長い旅に出発しました。
人通りの少ない旅路を何日にも渡って進んだ末、彼らはヤスリブの近郊クバーに到着しました。町の人々は預言者がマッカを離れたという知らせを聞いて以来、何週間にも渡り地元の小山から毎朝暑さが厳しくなるまで待ち続けていました。預言者の一行は見張り人が去った後、日中の暑さが厳しい時間帯に到着しました。一人のユダヤ人が預言者を発見すると、彼はムスリムたちが待ち望んでいた預言者の到着を知らせ、ムスリムたちは彼を歓待するためにクバーへと集まりました。
預言者はクバーに数日間滞在し、そこでイスラーム史上最初のモスクを建立しました。その時までには、預言者出発の3日後にマッカを出たアリーも到着していました。マッカにおける預言者の教友たち、そしてクバーの“援助者”たちは、人々が預言者の到着を心待ちにしているマディーナへと預言者を案内しました。
マディーナの住人たちは、その歴史上最も喜びに満ちた日を迎えました。預言者に近い教友の一人、アナスは言いました:
「私は彼がマディーナに入った日をこの目で見たが、彼が我々のもとに来た日よりも良く、明るい日を知らない。私は彼が逝去した日もこの目で見たが、彼が亡くなった日よりも悪く、暗い日を知らない。」(アハマド)
マディーナの全ての家主は、預言者が彼らの家に留まることを望み、一部の人々は彼の乗っていたラクダを彼らの家に導こうとしました。預言者は彼らをなだめてこう言いました:
“彼女(ラクダ)を放っておきなさい。彼女は(神の)指令に従っているのだから。”
ラクダは多くの家々を通り過ぎ、やがて立ち止まり跪きました。そこはバヌー・ナッジャールの地でした。ラクダが再び立ち上がり、少し歩いて振り返り、同じ場所にまた跪くまで預言者はラクダから降りませんでした。預言者はラクダから降りると、その選択を喜びました。バヌー・ナッジャールは彼の母方の叔父たちにあたり、彼は彼らに敬意を示したかったからです。人々が預言者を彼らの家に招待していた時、アブー・アイユーブが進み出て預言者の鞍を取り、彼の家に運び入れました。預言者は言いました:
“人は鞍のある場所に行くものだ。”(サヒーフ・アル=ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)
マディーナで彼が最初に取りかかったのはモスクの建立でした。預言者(彼の神の慈悲と祝福あれ)はナツメヤシの実の店を持つ2人の少年を呼び、彼らの畑の値段を聞きました。彼らは答えました:“いいえ、神の預言者よ、私たちはそこをあなたのための贈り物にします。”預言者はその申し出を断り、適切な価格を支払い、そこにモスクの建築を決め、彼自身もその作業に携わりました。その際に彼がこう言ったのが記録されています:
“神よ!来世以外には善徳はありません。それゆえ援助者と移住者たちをお赦し下さい。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)
モスクはムスリムたちにとっての崇拝の場として機能しました。個人によって密かに行われていた礼拝は、今ではムスリム社会を象徴する、公然の行為となりました。ムスリムとイスラームが軽視・抑圧されていた時期は終わったのです。礼拝の呼びかけであるアザーンは町中に高らかに響き渡り、ムスリムたちに対して創造主への義務遂行を喚起しました。モスクはイスラーム社会の象徴であり、崇拝の場であり、宗教を学び、教える啓発の場であり、相争う二者が集う問題解決の場であり、社会におけるあらゆる事柄に端を発する場として、いかにイスラームが人生のあらゆる諸事を包括しているかということを示す真の実例なのです。これら全ての役割は、ナツメヤシの木の幹をもとに築かれ、その葉が屋根となった場で行なわれたのです。
最初の最も重要な作業が終ると、彼は自分の家族のために、モスクの両側に同じ材料で家を建てました。預言者モスクと彼の家は、今現在も全く同じ場所に建っています。
ヒジュラは完遂されました。622年9月23日、イスラーム暦はこの出来事をもとに開始しました。そしてこの日からヤスリブは新たな栄光の名を持つようになりました。それはマディーナトゥン=ナビー、すなわち預言者の町という意味を持ち、短縮してマディーナと呼ばれました。
これがマッカからヤスリブへの居住であるヒジュラです。13年間に渡る屈辱と迫害、そして限定的な成功の季節は終ったのです。
そして、一人の人間によってもたらされた最も完全な10年間に渡る成功が始まりました。クルアーンに明記されているように、ヒジュラは預言者の使命において、はっきりとした転機となりました。それまで彼は宣教者としてのみ活動していましたが、彼は小さな都市国家の長となり、それから10年後にはアラビア半島全体の元首となりました。彼とその人々がヒジュラ以前に求めていた導きは、ヒジュラ後のそれとは異なるものでした。それゆえ、マディーナ啓示の章はマッカ啓示のものと主旨が異なります。後者は個々の魂に対する導きであり、預言者へ訓戒する者としての役割を与えました。前者は成長する政治共同体への導きと、立法者、改革者、そして模範的人物としての役割を預言者へ与えたのです。