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聖書の矛盾性を認めるキリスト教学者たち(2/7):改変の実例

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1906 2014/03/19 2024/03/28

ヨハネ3:16―認定版(KJV)ではこう述べられています:

“神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

この独り子という捏造は現在、最も著名な聖書改訂者らにより、はばかれることもなく乱用されています。しかし、これは人類が2000年も待つに価するような「啓示」ではないのです。

聖クルアーンのマルヤム章(19:88−98)では、このように述べられています:

 

“また彼らは言う。「慈悲深き御方は子を設けられる。」確かにあなたがたは、酷いことを言うものである。天は裂けようとし、地は割れて切々になり、山々は崩れ落ちよう。それは彼らが、慈悲深き御方に対し、(ありもしない)子の名を(執り成すものとして)唱えたためである。子を設けられることは、慈悲深き御方にはありえない。天と地において、慈悲深き御方のしもべとして、罷り出ない者は唯の1人 もないのである。本当にかれは、彼らの(すべて)を計算し、彼らの数を数えられる。また審判の日には、彼らは各々一人でかれの御許に罷り出る。信仰して善 行に励む者には、慈悲深い御方は、彼らに慈しみを与えるであろう。われが(クルアーン)をあなたの言葉(アラビア語)で下し分りやすくしたのは、あなた が、主を畏れる者に吉報を伝え、議論好きの者に警告するためである。われは、彼ら以前に如何に多くの世代を滅ぼしたことであろう。あなたは(今)、それら の中の一人でも見かけられるのか。または彼らの囁きを聞くことが出来るのか。


また第1ヨハネの手紙5:7−8(欽定訳聖書版)ではこう述べられています:

“天国で証しするのは三者で、父と御言葉と聖霊です。この三者は一致しています。

1.2.2.5部で見られるように、この節は教会が三位一体と呼ぶものに最も近いものです。しかしそこで、改訂標準訳聖書(RSV)から、50の宗派を代表する顧問委員会の協力を得た32名のキリスト教最高位学者らによって、キリスト教の根本的教えが廃棄されているのを見て取ることが出来るのです。再度、それは古代写本に則っているとされます。そして再度、私たちは1400年以上前に聖クルアーンがこの真実に関して啓示していたことを見出します:


“啓典の民よ、宗教のことについて法を越えてはならない。また神について真実以外を語ってはならない。マリアの子イエス・キリストは、ただ神の使徒だったのである。 マリアに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だから神とその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。そ れがあなたがたのためになる。誠に神は唯一の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にあるすべてのものは、神の有である。 管理者として神は万全であられる。(クルアーン 4:171


また1952年以前の聖書の全バージョンでは、預言者イエス(彼に平安あれ)による天国への昇天の奇跡が言及されていました:

“主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。(マルコ 16:19

また、ルカでもこう述べられています:

“そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰った。(ルカ 24:51−52)


1952年版の改訂標準訳(RSV)におけるマルコ16章は8節目で終わり、残りは脚注に追いやられ、小文字で記されています(これに関してはまた後述)。同様に、ルカ24章における節々の注解においては新改訂標準訳(NRSV)の脚注で、古代の典拠では「天に上げられた」の部分と、「彼らはイエスを伏し拝んだ後」が欠落していると述べられています。それゆえ、ルカの原文はただこう述べていただけのはずなのです:


“そして、祝福しながら彼らを離れた。そして大喜びでエルサレムに帰った。

“霊感による訂正”は、ルカの24:51−52を現在の形にするまで数世紀を要したのです。

別の例として、ルカ24:1−7ではこう述べられています:


“そ して、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たら なかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる 方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は 必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」”


ここでは再び、脚注は6節に言及してこう述べます:古代の典拠では「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」が欠落しています。


それらの例はここで紹介するには多すぎますが、新改訂標準訳を入手して福音四書に目を通してみることをお勧めします。その中の脚注では古代の典拠は〜が欠落しています、または古代の典拠では〜が追加されています等の言い回しが連続して2頁以上に渡って見られないことは殆ど無理だとお分かりになるでしょう。

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