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イスラームにおける崇拝行為(2/3):外面的崇拝行為の形式

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1530 2015/07/04 2024/11/18

一部の宗教は歴史を通して内面的崇拝行為の形式 に重点を置いてそればかりを発展させ、時代の変遷と共に完全に、あるいは部分的に外面的崇拝行為の重要性をないがしろにしました。一方で他の諸宗教は、外 面的にはっきりと見て取れる儀式ばかりを強調し、内面的信仰の価値を低減させました。しかしイスラームでは前述したように、内面と外面の絶対的区別をしま せん。内面の状態は外面に現れ、外面的な状態や行為は内面への影響をもたらします。内面と外面には明らかな疎通が見られ、お互いに作用し合う傾向があるの です。一種の内的的行為である意図は、それに見合った姿勢や行為へとつながります。また人は内面的にどういう状態にあるのか、たびたびその外観から察する ことが出来ます。例えば人が絶望や恐怖の状態にあると、ある種の振る舞いや表情によってそれを判断することが出来ます。また逆に、ある種の姿勢や活動をと ることによって、それに見合った内的状態がもたらされるということもまたあり得るのです。

神 へと捧げられる可視的崇拝行為は、ムスリムの信仰が結実したものだと言うことが出来ます。なぜならイスラームはその教義における究極的真実の信仰を追従者 に求めるだけでなく、可視的行為の実行も同様に要求しているからです。人は救済のためにある種の信仰を維持するだけでは十分ではありません。人が現世と来 世で共に成功するには、行いが最も重要なのです。

神 はイスラームの五行において示されているように、ムスリムがそれぞれの人生において戒律に従うことを命じています。そこには礼拝のように毎日課されるも の、また喜捨やラマダーン中の斎戒のように毎年課されるもの、そして一生に一度課されるハッジ(巡礼)が含まれます。イスラームでは五行以外にも多くの崇 拝行為行為が規定されており、それらの一部は義務行為、または任意的行為として各自の裁量に任せらています。

これらの崇拝行為行為には決められた儀礼も含まれますが、それが儀式・画一統制主義なようなものだと間違った解釈をしてはなりません。崇拝行為とは自らの行為を100パーセント自覚し、かつ自分が神の御前でそれを行っているということを意識することなのです。機械的に行なわれる行為は単なる反復運動のようなものであり、そこから精神的成長がもたらされることはありません。

“正 しく仕えるということは、あなた方の顔を東または西に向けることではない。つまり正しく仕えるとは、アッラーと最後の(審判の)日、天使たち、諸啓典と預 言者たちを信じ、かれを愛するためにその財産を、近親、孤児、貧者、旅路にある者や物乞いや奴隷の解放のために費やし、礼拝の務めを守り、定めの喜捨を行 い、約束した時はその約束を果たし、また困苦と逆境と非常時に際しては、よく耐え忍ぶ者。これらこそ真実な者であり、またこれらこそ主を畏れる者であ る。”(クルアーン 2:177)

▶崇拝行為の意義と利益

神 は私たちの崇拝行為を必要とはしません。崇拝行為はイスラーム及び過去の諸宗教において個人的、また社会的な人類の福利のために定められました。崇拝行為 はムスリムの人生における精神性の維持・発展に欠かせません。儀礼的な礼拝は個人に創造主への愛を教え、常住不断な神への意識を養うのです。神はこのよう に仰っています:

“人びとよ。あなた方、またあなた方以前の者を創られた主に仕えなさい。恐らくあなた方は神を畏れるであろう。”(クルアーン 2:21)

また神は、モーゼに対して次のように仰いました:

“・・・われに仕え、われを心に抱いて礼拝の務めを守れ。”(聖クルアーン 第20章14節)

崇 拝行為は私たちが神を意識することを助け、神との関係を維持させます。ムスリムは一日に最低五回の礼拝を行ない、この神との関係を保つのです。私たちが祈 願、嘆願、神への称賛をする際には、“思い起こさせるもの”とも呼ばれるべき神の啓示(クルアーン)を朗誦しつつ崇拝行為を行ないます。それは神の力と知 識が常に共にあることを私たちに認識させ、神への意識へと導くのです。

またムスリムは崇拝行為によって自己、地域、環境の悪を取り除き、世界に神の言葉を広めるための強い意識を形成します。神はこのように仰っています:

“本当に礼拝は、(人を)醜行と悪事から遠ざける。”(クルアーン)

同様に私たちが崇拝行為をもって日々を過ごせば、絶えず人生の目的と来世が思い起こされるでしょう。そして私たちが神の意思に従って人生を生きること、すなわち神のご満悦されることの遂行とかれが嫌悪されることの忌避が促されるのです。

私 たちは、崇拝行為のもつ社会への影響力というものを明確に見出すことが出来ます。社会とは言わば個人の複合体であり、個々人が精神的、論理的に高潔であれ ば、社会そのものも同様に高潔なものとなります。神によって常に見守られていることを感じさせるような理想的社会では慈善に富んだ善行は不可分の性質と化 し、そして罪悪は隔離され、制限されるでしょう。

一 部の人々にとっては、神への崇拝行為や服従行為は牢獄での監禁生活や、奴隷制度に似たようなものだと映るかもしれません。しかし実際には、神への崇拝行為 と従属状態は人類をあらゆる種類の隷属から解き放つのです。そうすることで私たちは国家や社会への隷属、家族の束縛から自由になり、私たちの唯一の主であ る神をご満悦させることが可能となるのですから。これこそが安泰と満足をもたらす本当の意味での自由であり、神への従属とはその自由をもたらす最大の源な のです。

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