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無神論(1/2):否定出来ないことの否定

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1629 2015/07/30 2024/11/18

“人生における最大の悲劇は、神を失い、かれを恋しいとも思わなくなることだ。”

‐F.W.ノーウッド

無 神論者たちは神の存在を認めないことを強調しますが、たとえ頑強な無神論者であっても、ある段階においては神の存在を認めるというのが一部のキリスト教 徒、またすべてのムスリムの言い分です。生得的なものでありながら軽視されがちな神の認識は、極度な緊張状態においてのみ、無神論者の意識の中に現れま す。これは第二次世界大戦における引用‐“蛸壺壕に無神論者はいない”1‐として表現されています。

人 生においては、長く苦しい闘病生活や、永遠とも思える屈辱の瞬間である暴力の被害、または交通事故での衝突の瞬間に感じる長い一瞬など、全ての人類が人間 は無力であるという真実、そして天命の前においては何も為す術がないことを知覚する場面が必ずやってきます。人はそのような状況下で、創造主以外の誰に助 けを請い求めるというのでしょう?そのような差し迫った危機的状況は、宗教学者から不信仰を公言する無神論者に渡るあらゆる人々に対し、ちっぽけな自分た ちよりも遥かに大きな真実への依存を思い起こさせるのです。それは知識、力、意思、威厳、栄光において遥かに大きな真実なのです。

こ のような災難の瞬間、人的努力が実を結ばず、あらゆる物質的要素をもってしても安寧や助けがもたらされる見込みのないとき、人は本能的に誰に助けを求める でしょう?そのような試練のとき、一体どれだけの人々が神に対して一生涯の忠誠と引き換えに助けを懇願するでしょうか?そしてそれらの約束はどれだけ実際 に守られたでしょうか?

最も大きな試練の日が審判の日となることは疑いの余地がないことですが、もし誰かがその日になって初めて神の存在を認めなければならないとすれば、それほど不幸なことはありません。英国の詩人エリザベス・バレット・ブラウニングは、その作品The Cry of the Human (人間の叫び)の中で、苦難にある人間の嘆願の皮肉を描いています:

“口先では『神よ、ご慈悲を』と言うが、

決して『神よ、讃えあれ』とは言わない。”

懐疑的でありながら神と審判の日の存在の可能性を恐れる思慮深い無神論者は、以下の「懐疑論者の祈り」について考慮してみると良いかもしれません:

「おお主よ‐もしも主がいるのなら、

私の魂を救い給え‐もし私に魂があるのなら。」2

懐 疑論が信仰を阻害していることを考えると、上記の祈りは一部の人々にはうってつけのものであると言えるでしょう。無神論者が不信仰に留まるのであれば、彼 らは上記のような状況よりも悪化することはないでしょう。もしも真摯な嘆願によって信仰が伴うようになるのであれば、トーマス・ジェファーソンは以下のよ うに述べています:

“も しもあなたが神を信じるに足りる理由を見出し、かれがあなたを見ている、あなたを承認しているという意識を持つようになるのであれば、それは大いなる鼓舞 となるであろう。もしも幸福な存在としての未来の状態を思い描くことで、そうするに相応しい欲求が増加されるのであれば・・・”3

もしも誰かが、神の創造の中にかれの偉大さを見出さないのであれば、もう一度よく考察するよう助言すべきでしょう。フランシス・ベーコンはこのように述べたと記録されています:“私はこの宇宙に何らかの英知が働いていないなどと信じるよりは、伝説上の神話や、タルムード、クルアーンを信じる方を選ぶ。”さらに、彼はこう記しています:“神は決して無神論者を確信させるために奇跡を起こしたりなどはしない。なぜならかれの創造はそれだけで十分に確信をもたらすからである。”たとえそれが神にとっての最も低い要素の創造であったとしても、私たちにとっては奇跡であるという事実は熟考に値するでしょう。クモという小動物を例にとってみましょう。このような驚くべき複雑性を持ち合わせた生物が、 原 始スープから進化したと信じている人は本当にいるのでしょうか?この小さな奇跡は最大で七種類の糸を作ることができ、それらの一部は可視光線の波長ほどの 細さでありながら、鋼鉄よりも硬いのです。それらは伸縮性と粘着性のある網の罠から、粘着性のない引き網、また獲物を包みこむためのものや卵嚢など、クモ は七種の糸から用途に合わせたものを自在に作り出すだけでなく、それらを再吸収・分解した上で再生産するといった、構成要素からの自己再利用をすることも 出来るのです。そしてこれは、クモの奇跡におけるほんのひとつの側面に過ぎないのです。

それにも関わらず、人類は傲慢にも奢りたかぶります。ひとときの熟考は、人の心を謙虚さへと傾けるでしょう。建 物を目にすればそれを立てた建築士、彫刻を目にすればそれを造った芸術家を連想するはずです。しかし創造における優雅なまでの複雑さに関して調査をしてみ ましょう。核粒子のバランスの複雑さや宇宙の未知なる広大さから、何も印象を受けないとでも言うのでしょうか?同調する世界の複雑性に囲まれていながら、 私たち人間は昆虫の羽さえ作り出すことが出来ません。それにも関わらず、なぜ全世界・全宇宙の完璧なる調和は、偶発的かつ連鎖的な出来事による産物によっ て宇宙のカオスが完璧な調和へとつながったのであるなどと主張することが出来るのでしょうか?ある人々はそれが偶然であるとしますが、他の人々はそれを創 造であるとするのです。



Footnotes:

1 N.Y. Times.  13 Apr 1944.  Cummings: Sermon on Bataan, The Philippines.

2 Renan, Joseph E.  Prayer of a Skeptic.

3 Parke, David B.  p. 67.

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