奇蹟には必然的に神格性が伴うのか

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1117 2014/04/16 -0001/11/30

イ エスは奇蹟を行なったことから、一部の人々は彼に神格を与えています。しかし多くのユニテリアン派キリスト教徒たち、そして全てのムスリムは、イエスが実 際に奇蹟を行なったことは認めますが、それは神の許しによるものであり、彼自身の神的能力によるものではないとします。使徒行伝2:22を見てみましょう:


“あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。”


バイブルとクルアーンに符合する形で、ムスリムはイエスの奇蹟は神の御力によって実現したのであると主張します。クルアーンではこう述べられています:


“アッ ラーがこう仰せられた時を思い起こせ。「マリアの子イエスよ、あなたとあなたの母が与えられた、われの恩恵を念じなさい。われは聖霊によってあなたを強 め、揺りかごの中でも、成人してからも人々に語ることの出来るようにした。またわれは啓典と英知と律法と福音をあなたに教えた。またあなたはわれの許しの 許に、泥で鳥を形作り、われの許しの許に、これに息吹して鳥とした。あなたはまたわれの許しの許に、生まれつきの盲人と癩患者を癒した。またあなたはわれ の許しの許に、死者を甦らせた。”(クルアーン5:110)


イ スラーム的観点として、奇蹟は神に与えられた預言者性の証拠ですが、それは神格性をほのめかすものではありません。ハディース(ムハンマドの言行や外貌、 彼による暗黙の了解を集めた伝承)には、ムハンマドにより行なわれた数々の奇蹟が、バイブルの写本に見いだされるものよりも歴史的により信頼性のある形で 伝承されています。ハディース学の発展による歴史的事実の保存は驚異的であると見なされる一方、バイブルは歴史的正確性における最も基本的な基準さえ満た していません。1例 えば、福音書を含む大半のバイブルの著者は不明ですし、それらが書かれた時代もはっきりしておらず、更にはそこに書かれているものの多くも、曖昧な情報源 に由来するものなのです。これらの問題の詳細については後程触れることにしますが、まずは祭司長たちに寝返ったユダによるイエスへの裏切りに関して考察し てみましょう。誰がこれを著し、そして何故私たちはそれを信じるべきでしょうか?彼は裏切りの際にその場にいたのでしょうか?もしそうでなければ、彼はど うやってその情報を手に入れたのでしょうか?もしその場にいたのである場合、彼はイエスにそのことを知らせなかったことから、共犯者と見なされることには ならないでしょうか?そして、福音書の著者ともあろう人物がそのようなことをするのは一体どういうことなのでしょうか?


そんなことは馬鹿げているとお感じになるかもしれません。しかしながら、源泉が不明な福音書や手紙に対して救済を信託することは、更に馬鹿げたこととは言えないでしょうか?


1985 年に結成されたThe Jesus Seminar(イエス研究会)は、記録されているイエスの言行の信頼性を決定するための、キリスト教学者たちの公会議による、恐らく最も客観的かつ誠実 な試みであると言えるでしょう。しかしながら彼らの方法には、投票が含まれていました!イエス逝去の2000年後に200人近くもの学者たちが集まり、イエスに関する引用や歴史的報告に関するキリスト教徒の共同見解をまとめるのに、色付きのガラス玉を投じるというのです。例えば、イエスの言葉として報告されているものに関し、投じるガラス玉の色分けは以下のようになっています:


赤: イエスがそう言ったか、またはそれに非常に近いことを言った場合。ピンク:イエスが恐らく似通ったことを言ったが、その言い回しに関しては伝達を経ている もの。灰色:彼の言葉ではないが、意味合いとして彼自身のものに近いもの。黒:イエスの言葉でないものであり、キリスト教共同体を代表するもの、または後 世の概念に基づくもの。2

 


他のキリスト教共同体も、同じような手法によりバイブルの信頼性を確証しようと試みています。聖書協会連合による『ギリシャ語新約聖書:第二版』の編集者たちはアルファベットを使用します:


委員会は採用されたテキストに対して、当該テキストの前にA,B,C,Dの4文字を大括弧{}によって囲む方法により、内部による検討に基づいたもの、それと外部証拠によるものに対しての相対的な確実性を導き出そうと試みています。文字Aはテキストの信頼性が確定的である場合、Bは何らかの疑念が少なからず存在する場合、Cは相当に疑わしい場合、そしてDは当該するテキストの内容に非常に高い疑念がある場合に使用されています。3

 


ブルース・メッツガーは彼の『新約聖書の本文研究』において同様の方法論を用いたことを説明します。そこで彼はこう記しています:「事実、{D}決定においては、時として当該テキストはどれ一つ原文として推薦されなかったため、唯一の頼りは最も不十分でないものを印刷することであった。」4

 


さて、このようなことはバイブルを人類の救済として信託することに関し、私たちにどういった感情をもたらすでしょうか?

主 題から話が逸れてしまいました。重要な点としては、このような格付けシステムはバイブルの記録の限定性を踏まえると、恐らく最善の方法であったものと考え られますが、上記のようなコメントは何とも痛恨です。この上なく精巧なハディースの確証システムと比較してみると、色付きビーズとABCDの格付けシステムの間には、何か重大なものが欠落している印象が否めません。

 


人 は通常、それが信頼のおける筋からであれ、何らかの実話を聞いた時にはまず「どこでそれを聞きましたか?」と質問するものです。そのことからも分かるよう に、歴史的記録の保存は極めて重要なものです。合理的基準に当てはまる歴史的記録には、どのようなものであれ情報源の証明と確認が含まれなければなりませ ん。聖クルアーン、そして多くのハディースの伝承は、最も高基準な確証条件を満たすものなのでが、大多数のバイブルの章句はその限りではないのです。5


こ れが、私たちの今抱えている問題とどう関わるのでしょうか?それは単純なことです。ムハンマドを通して起きた奇跡は、イエスのそれよりも量的に少なかった り、あるいは余り印象的でなかったなどとしたりすることではありません。むしろそれらは非難のしようがない程の歴史的記録による証言があるため、実際には それと同様のその他全ての時代のものの面目を潰してしまう程です。モーゼ、エリシャ、ムハンマドの奇蹟がどれも彼らの神格性を意味しないように、イエスの ものもそれらと同様なのです。

 


それではいくつかの例を見てみましょう:

1.イエスは僅かな魚とパンで何千もの人々を養いました。しかしエリシャは20個のパンと一袋の穀物で百人が食べきれない程の食事を与えました(第二列王記4:44)。また、とある寡婦の器から油を溢れさせ、彼女はそれによって負債を全額返済し、奴隷の息子を解放し、その利益によって生活を営むことが出来たのです( 第二列王記4:1‐7)。また、『かめの粉は尽きず、つぼの油もなくならなかった』(第一列王記171016と されるほどの小麦粉と油を供給し、彼と寡婦、そして彼女の息子はそれを長期間に渡って食べ続けることができたのです。それによってエリシャにはどのような 位置づけが与えられるでしょうか?歴史的記録によると、ムハンマドは一握りのナツメヤシ、またあるときはミルク瓶、そしてあるときは僅かな肉で大衆を養い ましたが、それら全ては奇跡において等しいのです。同様に、彼が一つの器から大衆に飲み水を与えた話(一度に1500人)もあります。しかし、一人としてムハンマドの神格性を主張するムスリムはいないのです。

 


2.イエスは癩病患者たちを治癒しました。同様にエリシャもナアマンを治癒しています(第二列王記5:7‐14)。これに関し、彼の弟子たちはマタイ伝10:8で、同様のことをするよう命じられています。それによって彼らはどういった位置づけをされるのでしょう?


3.イエスは盲人を治癒しました。エリシャは彼の敵を盲目にしただけでなく、祈りによって盲人の目を治したのです(第二列王伝6:17‐20)。ムハンマドも同じように、祈りによって盲目を治癒したことが報告されています。


4.イエスは死人を甦らせました。ここでもエリシャはイエスと競合します。彼は二人の子供を死から甦らせました(第一列王伝17:22と第二列王伝4:34)。さらにはイエスの弟子たちも死人を甦らせるよう命じられています(マタイ伝10:8)。くどいようですが、それによって彼らの位置づけはどうなるのでしょう?


5.イエスは水の上を歩きました。彼がモーゼの時代に生きていたのであれば、そうする必要はなかったでしょう。


6.イエスは悪魔たちを追放しました。彼の弟子たちもそうです(マタイ伝10:8)。そしてパリサイ人の子らもそうでした(マタイ伝12:27、ルカ伝11:19)。そうなのであれば、イエスが自分との関係を否認する、気まぐれな追従者たち(マタイ伝7:22参照)はどうなるのでしょうか。いかに多くの聖職者や司祭たちがそのような演劇的なこと(たとえそれが本物であれ)を実際にしていることには、驚きを禁じ得ません。

もしも私たちがイエスの神格性に関する根拠を探し求めれば、奇蹟のさらなる先に目をやらざるを得ません。

 

 

Copyright © 2010 Laurence B. Brown; used by permission.

上 記はブラウン博士の近刊書である MisGod’ed からの抄録です。以上は続編である God’ed と共に近日発行予定となっています。両書はブラウン博士のホームページ( www.LevelTruth.com)でサンプルを読むことが出来ます。ブラウン博士とは、BrownL38@yahoo.com を通じて連絡を取ることが出来ます。



Footnotes:

1 この件に関してさらに調べてみたいという方にはMuhammad Zubayr Siddiqi (Islamic Texts Society, London, 1993)によるHadith Literature: Its Origins, Development and Special FeaturesそしてMuhammad Mustafa Azami (American Trust Publications, Indianapolis, 1977)による Studies in Hadith Methodology and Literatureの両書をお勧めします。

2 Funk, Robert Walter. 1996. Honest to Jesus, Jesus for a New Millennium. Polebridge Press. p. 8.

3 Aland, Kurt, Matthew Black, Carlo M. Martini, Bruce M. Metzger & Allen Wikgren (Editors). 1968. The Greek New Testament. Second Edition. United Bible Societies. pp. x-xi.

4 Metzger, Bruce M. A Textual Commentary on the Greek New Testament. Introduction, p. 14.

5 ハディースは保持された言行録であるのに対し、「我々の(バイブル)原本における相違は、新約聖書の中の文字数よりも多いのである。」 – Ehrman, Bart D. Misquoting Jesus. p. 10.

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