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内なる平和を求めて(2/4):運命の容認
私たちは多くの問題や障壁を抱えており、それらはあたかも病気のようです。もしもそれらの一つ一つに取り組んだとしても、決して終わりが来ないような感もあります。私たちはそれらを明確にし、一般的な区分に分類し、一つずつではなく、まとめて取り組むべきです。
そうするためにはまず、私たちにとって制御出来ない性質の障壁を削除しな ければなりません。何が制御可能な障壁で、何が不可能な障壁かを見極めるのです。私たちは制御不能なものを障壁であると見なしがちですが、現実には異なる のです。それらは神が私たちの人生において運命付けたものであり、私たちはそれらを障壁であると誤って解釈してしまいがちです。
例えばあなたが、白人が好まれる世界において黒人として生まれて来たとしましょう。または裕福な人が好まれる社会において貧乏人として、あるいは身長の低い人か、身体の不自由な人として生まれたとします。
これらの全ては私たちにとって制御の出来ないもの、つまりコントロールの範疇外です。私たちはどの家族に生まれるか選べません。また私たちは、私たちの魂がどの体に吹き込まれるのかを選ぶことなどしませんでした。つまり選択肢はなかったのです。従ってこういった類のものを障壁であると感じるのであれば、現実には間違っているのであると認識しなければなりません。神はこのように仰られています:
“・・・自分たちのために善いことを、汝らは嫌うかもしれない。また自分たちのために悪いことを、好むかもしれない。汝らは知らぬが、神は知っておられる。”(クルアーン 2:216)
従って私たちにとって制御の出来ない障壁を私たちは嫌悪し、変えたいと思うかも知れません。事実、一部の人々はそれらを変えようと多くの富を費やします。
私たちの制御の範疇である障壁が、神による運命なのであると忍耐をもって認知されない限りは、内面的平和が達成されることはありません。
私たちにコントロールの出来ないことが起こったのであれば、神はその中に善きものを据えられ、例え私たちにはそれが何であるか分からずとも、依然としてそこには善きものがあるということを私たちは知るべきです。まずはそのことを認めましょう。
さて、以前ある新聞記事ににっこりと笑うエジプト人男性の写真がありました。彼は両手の親指を突き出して満面の笑みを浮かべており、片方の頬には彼の父親が、もう片方の頬は彼の妹がキスしていました。
写 真の下には見出しが付けられており、それによれば彼は前日にガルフ・エア航空のカイロ・バーレーン間のフライトに乗る予定でした。彼は大急ぎで空港に向 かったため、空港に着くまで自分のパスポートに判のひとつが押されていなかったこと気付かなかったのです。(カイロでは個人の証明に多くの判が押されてい なければなりません。判や署名はあちこちで多用されています。)彼は空港に着くと愕然となりました。彼はバーレーンに教職の出稼ぎをしており、そのフライトは最終便で、それを逃して時間通りの出頭が出来なくなるということは、彼にとって失職を意味したのです。それで彼はフライトに乗せてくれるよう、しつこくせがみました。終いには半狂乱になって泣き叫びながら懇願したにも関わらず、結局搭乗することが出来ず、飛行機は彼を尻目に離陸しました。彼はもう仕事を失ってしまったものと思い込み、悲しみに打ちひしがれて実家へと戻りました。彼の家族は彼を慰め、余り 気にしないよう慰めました。しかし翌日、彼が乗るはずだった飛行機が墜落し、乗客が全員死亡したというニュースを彼は耳にするのです。彼はそのフライトに 乗らずに済んだことに歓喜しましたが、つい前日まではそのフライトに乗れなかったことによって、人生が終ったかのようなどん底の状態にあったのです。
これらは神によるみしるしであり、こういったみしるしはモーゼとヒドルの物語(私たちが金曜日に読むべき章である、聖クルアーンの洞穴章の中に言及されています)の中にも見出すことが出来ます。モーゼとヒドルを川の向こう岸まで連れて行ってくれた親切な人々の船に穴を開けたヒドルに対し、モーゼは彼になぜそのようなことをしたのか尋ねました。
船の所有者たちがその穴を見つけると、彼らは誰がそんなことをしたのかと驚き、たちの悪いいたずらだと思いました。しかししばらくしてその国の王が川岸までやって来て、穴の開いた船以外の全ての船を取り上げてしまったのです。そして船の所有者たちは、船に穴が開いていたことに関して神を讃えました。[1]
人生には他の障壁、または障壁であると知覚される種類のものがあります。これらのものは私たちにとって知る由もないものです。それはある出来事が起こっても私たちにはその原因が分からず、説明のしようのない類のものです。一部の人々は、それにより不信仰に陥ってしまう場合すらあります。例えば内面的平和の全く無い無神論者の話を聞き、神の存在を否定してしまったような場合です。なぜその人物は無神論者になったのでしょうか?神は私たちを創造し、かれを信じる本能を据えられているため、神を信じないということは不自然なことなのに。
神はこのように仰られています:
“それで汝(ムハンマド)は汝の顔を純正な教え(神以外に崇拝行為を向けない一神教)に、確り向けよ。神が人間に定められたフィトラ(天性)に基いて。神の創造(イスラームの教え)に、変更がある筈はない。それは正しい教えである。だが人々の多くは分らない。”(聖クルアーン30:30)[2]
預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)はこう言われています:
“あらゆる子供たちは天性(ムスリムとして神を信じる本能的性質)を持って生まれて来るのだ・・・”
こういったものは人間の本能ですが、子供の頃からそれを教えられることなく無神論者になった人物は、通常何らかの不幸な出来事によってそのようになってしまっているのです。彼らは、彼らの人生で不幸なことが起きても、なぜそのようなことが起きたのか理解出来ないのです。
例えば無神論者になった人物に、素敵な叔母がいたとします。彼女は善良な人物で誰からも愛されましたが、ある日彼女が道路を渡ろうとした時、 突然自動車に轢かれ亡くなってしまいました。なぜ彼女に限ってこういうことが起きなければならないのでしょうか?どんなに悩んでも、それは説明がつかない のです。または(無神論者になった)ある人物の子供が亡くなり、なぜ自分の子にこういったことが起きるのかと悩み抜きましたが、全く説明することが出来ま せん。その結果、神など存在するはずもないと思うようになるのです。