イスラームにおける社会的連帯(下):ムスリムと非ムスリム

ムスリムと非ムスリム

当たり前のことながら、社会はムスリムだけによって構成されているのではなく、ムスリムと非ムスリムは非常に異なる道を歩んでいます。ムスリムの人生は、神への信仰を軸として回転しています。同様に、ムスリムによる他者への対応は、その人の神に対する態度によって決まります。神に背き、神への服従を拒否し、神への信仰を嘲笑うような者に対し、ムスリムが完全な親近感を感じることは不可能です。そのような両者に完全な愛情が育まれることは、単に不自然なことでしかありません1。しかし、そうした負の感情にも関わらず、ムスリムは非ムスリムに対して公正な態度で接しなければなりません。それはすべての非ムスリムに適用されます。多くの非ムスリムはムスリムに対して全く敵対的ではない一方、明らかに軽蔑的な態度を取る者や、憎悪を持つ者たちも多く存在しています。2

非戦闘員の非ムスリムに対する基本的処遇の原則としては、次のクルアーンの節において見出すことが出来ます。

“神は、宗教上のことであなたがたに戦いを仕掛けたり、またあなたがたを家から追放しなかった者たちに親切を尽し、公正に待遇することを禁じられない。本当に神は公正な者を御好みになられる。”(クルアーン60:8)

不信仰者に対する重要な義務とは、適切で公正な処遇です。このことは著名なイスラーム学者のシャイフ・イブン・バーズによっても述べられています。

“も し非ムスリムがイスラーム国家の市民であるか、もしくは保護の対象なのであれば、(ムスリムはそのような)他者の生命、富、名誉を脅かしてはなりません。 他者の権利は尊重すべきなのです。盗みによって人の富を脅かしたり、嘘をついて騙したりしてはならないのです。彼らに虐待や殺害のような肉体的危害が加え られてもなりません。国家による保証は、彼らをそういったものから保護するのです。3

ムスリムは、例えば売買、賃貸などにおいて非ムスリムと取引をすることが出来ます4。 さらには社交的水準においても、会食などの交流が可能です。しかし、社会的慣習などの相違から、そういった交流は自然と限定的になります。ムスリムによる 非ムスリムとの交流の究極的な目的は、彼らをイスラームに導き、それを通して彼ら同士の同胞愛の道を開くことだと言えるでしょう。たとえ非ムスリム側が敵 対的で無礼であったとしても、その悪をはねつける方法は善行によるものであることをムスリムを知っているのです。神はこう述べています。

“善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層善行で悪を追い払え。そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになる。”(クルアーン41:34)

イブン・バーズは要約してこのように述べています。

“ム スリムがイスラーム的礼節をもって不信仰者と接することは、彼らがムスリムに対して戦闘を仕掛けてきているのではない限りは義務行為です。ムスリムは彼ら との信頼関係を保ち、彼らに対して欺くことも、裏切ることも、嘘を付くこともしてはなりません。もし彼らとの議論や論争が巻き起こったのなら、最善の態度 で臨み、公正な議論を行うべきです。このことは神の命令に従うことでもあるのです。”

“また啓典の民(ユダヤ・キリスト教徒)と議論するさいには、立派な(態度で)臨め。しかし、かれらの中不義を行う者に対しては別である。”(クルアーン29:46)

ムスリムは彼らに善を勧め、助言を与えると同時に、彼らに対して辛抱強くあり、隣人関係を築き、親切にすることが奨励されています。なぜなら、神は次のように述べているからです。

“英知と良い話し方で、(凡ての者を)あなたの主の道に招け。最善の態度でかれらと議論しなさい。”(クルアーン16:125)

また、神はこのようにも述べています。

“…人びとに善い言葉で話し…”(クルアーン2:83)5

ムスリムと全体としての社会

ム スリムがある国家に居住することを了承したのであれば、彼は本質的にはその国家の法律を順守するという協定を結んだことになります。ムスリムであるから、 またはそこがイスラーム国家ではないからといって、ムスリムにその国の法律を破る権利はないのです。それゆえ、この章で述べられた適切な態度の原則は、ム スリムにとっていかなる場所においても適用されるのです。現在の大半の国では、ムスリムにとって禁じられたことが合法とされています。それらの「合法」と された物事を、ムスリムは避けなければなりません。また、彼は基本的権利を駆使し、イスラームにおいて禁じられたことを強要されないように要求しなければ なりません。彼は法を順守する市民でなければならないことが大前提なのです。

そ れに加え、ムスリムは居住する社会にとってプラスの存在でなければなりません。彼は様々な面においての模範的市民であるべきなのです。既述されたように、 彼は良き隣人であるべきですし、彼にはどこにいるのであれ、勧善懲悪の義務があります。また、彼は殺人、強盗、窃盗など、大半の社会が凶悪犯罪であると見 なすものを忌避しなければなりません。さらに、彼はアルコールやドラッグの消費も禁じられており、社会に対して自らの弱さや依存性を負担とさせてはなら ず、他人に対しても公正で義にかなったやりとりをしなくてはならないのです。

イ スラームでは、個人が自らの国家を愛し、生まれ育った土地に親近感を持つことは自然なことであると認識します。過去にムスリムたちが多神教徒の支配下に あったマッカから追い出されたとき、彼らの多くはマッカへの愛情を表明しました。それゆえ、ムスリムが居住する土地がどこであれ、そこへの愛着を持つこと は、たとえそこがイスラーム国家でなくとも自然なことなのです。故郷にとって最善のことを望むのもまた、自然なことです。しかし、何が「最善」であるのか という観念は他者によって共有・評価をされないかもしれません。たとえば、ムスリムはギャンブル、売春、ポルノの撤廃を望むでしょう。それがムスリム・非 ムスリムを問わず、人間にとって最善であるとムスリムは見なすからです。しかしながら、多くの非ムスリムはそうした感情を共有しないでしょう。こうしたこ とが難題なのです。理論上は、現代の「自由」社会において、これは問題にはならないはずなのです。非ムスリム国家の中の多数派に優勢的な文化の中で、少数 派であるムスリムは他者に危害を及ぼすことなく、自分たちの価値観・習慣に基づいた生活は出来るはずなのです。もし、「自由」な国家がムスリムにそうする ことを許さないのであれば、それは彼らが自分たちの理念に忠実ではないことを示します。ムスリムは彼らに危害を加えようとはしないどころか、優勢的な文化 における異なったライフスタイルを取り入れつつも、善良な市民であることを心がけるだけなのです。

結論

多 元的社会においてさえ、イスラームの教えは社会的連帯を訴えます。第一に、そうした連帯に対する大きな障害である人種差別と偏見が取り除かれます。第二 に、イスラームを信仰する者同士の愛情と絆が結ばれます。第三に、信仰外の人々には、明確で決定的な指示により、公正で適切な態度に基づいた対応が取られ ます。第四に、ムスリムは周囲にいる人々に対する自らの責任を理解し、さらなる社会的連帯と良き感情を促進するため、すべての面において貢献出来るよう努 力するのです。



Footnotes:

1 このことは世俗主義者たちにとっても同様の事実です。政治における左翼と右翼はお互いに対して蔑み、敵意を隠しません。

2 ムスリム国家が非ムスリム国家と戦争をするような事態も発生します。交戦状態は人類の歴史において珍しい現象ではなく、必ずしも将来的な協力関係への発展を否定するものでもありません。事実、欧州諸国はときには100年以上に渡って戦争に明け暮れましたが、現在では欧州連合として連帯しています。交戦状態は、そのようなムスリムと非ムスリムの関係に影響を与えます。しかし、それは現在の世界において一般的なケースではないゆえ、そういったケースの議論はこの論考の範囲を超えるものです。

3 Ali Abu Lauz, compiler, Answers to Common Questions from New Muslims (Ann Arbor, MI: IANA, 1995), p. 30.

4 非ムスリムの親戚や隣人に関する問題は既に取り上げられています。

5 Ali Abu Lauz, Answers, p. 42.

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