クルアーンの中のイエスとマリアの物語

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3584 2013/01/21 -0001/11/30

クルアーンの中のイエスとマリアの物語

 

“本 当に神は、アダムとノア、そしてアブラハム一族の者とイムラーン一族の者を、諸衆の上に御選びになられた。かれらは、一系の子々孫々である。神は全聴にし て全知であられる。イムラーンの妻がこう(祈って)言った時を思え、「主よ、わたしは、この胎内に宿ったものを、あなたに奉仕のために捧げます。どうかわ たしからそれを御受け入れ下さい。本当にあなたは全聴にして全知であられます。」それから出産の時になって、かの女は(祈って)言った。「主よ、わたしは 女児を生みました。」神は、かの女が生んだ者を御存知であられる。男児は女児と同じではない。「わたしはかの女をマリアと名付けました。あなたに御願いし ます、どうかかの女とその子孫の者を、呪うべき悪霊から御守り下さい。」”(クルアーン3章33〜36節)

マリアの幼少期

“そ れで主は、恵み深くかの女を嘉納され、かの女を純潔に美しく成長させ、ザカリーヤーにかの女の養育をさせられた。ザカリーヤーが、かの女を見舞って聖所に 入る度に、かの女の前に、食物があるのを見た。かれは言った。「マリアよ、どうしてあなたにこれが(来たのか)。」かの女は(答えて)言った。「これは神 の御許から(与えられました)。」本当に神は御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。”(クルアーン3章37節)

敬虔な信仰者マリア

 “天使たちがこう言った時を思い起せ。「マリアよ、誠に神はあなたを選んであなたを清め、万有の女人を越え て御選びになられた。」「マリヤよ、あなたの主に崇敬の誠を捧げてサジダしなさい。ルクーウ(立礼)するものと一緒にルクーウしなさい。」これは幽玄界の 消息の一部であり、われはこれをあなたに啓示する。かれらが籤矢を投げて誰がマリヤを養育すべきかを決めた時、あなたはかれらの中にいなかった。またかれ らが相争った時も、あなたはかれらと一緒ではなかった。”(クルアーン3章42〜44節)

出産の吉報

 “また天使たちがこう言った時を思え。「マリヤよ、本当に神は直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えら れる。マリヤの子、その名はイエス・キリスト、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(神の)側近の一人であろう。かれは揺り籠の中でも、また成人し てからも人びとに語り、正しい者の一人である。」かの女は言った。「主よ、誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」 かれ(天使)は言った。「このように、神は御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ、『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」主は啓 典と英知と律法と福音とをかれに教えられ、そしてかれを、イスラエルの子孫への使徒とされた。(イエスは言った。)「わたしは、あなたがたの主から、印を 齎したのである。わたしはあなたがたのために、泥で鳥の形を造り、それに息を吹き込めば、神の御許しによりそれは鳥になる。また神の御許しによって、生れ 付きの盲人や、癩患者を治し、また死者を生き返らせる。またわたしは、あなたがたが何を食べ、何を家に蓄えているかを告げよう。もしあなたがたが(真の) 信者なら、その中にあなたがたへの印がある。わたしはまた、わたしより以前に下された律法を実証し、またあなたがたに禁じられていたことの一部を解禁する ために、あなたがたの主からの印を齎したのである。だから神を畏れ、わたしに従いなさい。.本当にわたしの主は神であり、またあなたがたの主であられる。だからかれに仕えなさい。これこそは、正しい道である。」”(クルアーン3章45〜51節)

“ま たこの啓典の中で、マリア(の物語)を述べよ。かの女が家族から離れて東の場に引き籠った時、かの女はかれらから(身をさえぎる)幕を垂れた。その時われ はわが聖霊(ガブリエル)を遣わした。かれは1人の立派な人間の姿でかの女の前に現われた。かの女は言った。「あなた(ガブリエル)に対して慈悲深き御方[1]の 御加護を祈ります。もしあなたが、主を畏れておられるならば(わたしに近寄らないで下さい)。」かれは言った。「わたしは、あなたの主から遣わされた使徒 に過ぎない。清純な息子をあなたに授ける(知らせの)ために。」かの女は言った。「未だ且つて、誰もわたしに触れません。またわたしは不貞でもありませ ん。どうしてわたしに息子がありましょう。」かれ(天使)は言った。「そうであろう。(だが)あなたの主は仰せられる。『それはわれにとっては容易なこと である。それでかれ(息子)を人びとへの印となし、またわれからの慈悲とするためである。(これは既に)神の御命令があったことである。』”[2](クルアーン19章16〜21節)

純潔な懐妊

 “また自分の貞節を守った女(マリア)である。われはかの女にわが霊を吹き込み、かの女とその子を万有のための印とした。”[3](クルアーン21節91章)

イエスの生誕

 “こうして、かの女はかれ(息子)を妊娠したので、遠い所に引き籠った。だが分娩の苦痛のために、ナツメヤ シの幹に赴き、かの女は言った。「ああ、こんなことになる前に、わたしは亡きものになり、忘却の中に消えたかった。」その時(声があって)かの女を下の方 から呼んだ。「悲しんではならない。主はあなたの足もとに小川を創られた。またナツメヤシの幹を、あなたの方に揺り動かせ。新鮮な熟したナツメヤシの実が 落ちてこよう。食べ且つ飲んで、あなたの目を冷しなさい。そしてもし誰かを見たならば、『わたしは慈悲深き主に、斎戒の約束をしました。それで今日は、誰 とも御話いたしません。』と言ってやるがいい。」それからかの女は、かれ(息子)を抱いて自分の人びとの許に帰って来た。かれらは言った。「マリアよ、あ なたは、何と大変なことをしてくれたのか。アロンの姉妹よ、あなたの父は悪い人ではなかった。母親も不貞の女ではなかったのだが。」そこでかの女は、かれ (息子)を指さした。かれらは言った。「どうしてわたしたちは、揺籠の中の赤ん坊に話すことが出来ようか。」その時)かれ(息子)は言った。「わたしは、 本当に神のしもベです。かれは啓典をわたしに与え、またわたしを預言者になされました[4]。 またかれは、わたしが何処にいようとも祝福を与えます。また生命のある限り礼拝を捧げ、喜捨をするよう、わたしに御命じになりました。またわたしの母に孝 養を尽くさせ、高慢な恵まれない者になされませんでした。またわたしの出生の日、死去の日、復活の日に、わたしの上に平安がありますように。」”(クルアーン19章22〜33節)

 “イエスは神の御許では、丁度アダムと同じである。かれが泥でかれ(アダム)を創られ、それに「有れ。」と仰せになるとかれは(人間として)存在した。”[5](クルアーン3章59節)

 “またわれは、マリアの子とその母を印となし、両人を泉の涌き出る安静な丘の上に住まわせた。”[6](クルアーン23節50章)

マリアの卓越性

 “また神は、信仰する者のために例を示される。ファラオの妻である。かの女がこう言った時を思い起しなさ い。「主よ、楽園の中のあなたの御側に、わたしのため家を御建て下さい。そしてファラオとその行いから、わたしを救い、不義を行う者から、わたしを御救い 下さい。」またわれは自分の貞節を守ったイムラーンの娘マリア(の体内)に、わが霊を吹き込んだ。かの女は、主の御言葉とその啓典を実証する、敬虔な(し もべの)一人であった。”(クルアーン66章11〜12節)

 

預言者イエス

 “言え、「わたしたちは神を信じ、わたしたちに啓示されたものを信じます。またアブラハム、イシュマエル、 イサク、ヤコブと諸支部族に啓示されたもの、とモーゼとイエスに与えられたもの、と主から預言者たちに下されたものを信じます。かれらの間のどちらにも、 差別をつけません。かれにわたしたちは服従、帰依します。」”(クルアーン2章136節)

“本当にわれは、ノアやかれ以後の預言者たちに啓示したように、あなたに啓示した。われはまたアブラハム、イシュマエル、イサク、ヤコブおよび諸支族に(啓示し)、またイエス、ヨブ、ヨセフ、アロンならびにソロモンにも(啓示した)。またわれはダビデに詩篇を授けた。”(クルアーン4章163節)

“マリアの子メシアは、一人の使徒に過ぎない。かれの以前にも使徒たちがあって、逝ったのである。かれの母は誠実な婦人であった[7]。そしてかれら両人は食べ物を食べていた[8]。見よ、われは如何にかれらに印を明示したかを。また見よ、如何にかれら(不信者)が迷い去るかを。”(クルアーン5章75節)

 

 “かれ(イエス)は、われが恩恵を施したしもべに過ぎない。そしてかれを、イスラエルの子孫に対する手本とした。”(クルアーン43章59節)

イエスの教え

 “われはかれらの足跡を踏ませて、マリアの子イエスを遣わし、かれ以前(に下した)律法の中にあるものを確証するために、導きと光明のある、福音をかれに授けた。これはかれ以前に下した律法への確証であり、また主を畏れる者への導きであり、訓戒である。”(クルアーン5章46節)

 “啓典の民よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。また神に就いて真実以外を語ってはならない。マリアの子イエス・キリストは、ただ神の使徒である。マリアに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である[9]。 だから神とその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠に神は唯一の神であられる。か れに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にある凡てのものは、神の有である。管理者として神は万全であられる。メシアは神のしもべであること を決して軽んじたりはしない。また(神の)そばにいる天使たちもしない[10]。かれに仕えることを軽んじ、高慢である者、これらすべての者をかれの御許に集められる。”(クルアーン4章171〜172節)

 “そのこと(イエスがマリアの子であること)に就いて、かれら(ユダヤ教徒、キリスト教徒)は疑っているが本当に真実そのものである。神に子供が出来るなどということはありえない。かれに讃えあれ。かれが一事を決定され、唯「有れ。」と仰せになれば、即ち有るのである[11]。本当に神は、わたしの主であり、またあなたがたの主であられる。だからかれに仕えなさい。これこそ正しい道である。それなのにかれらの間で、諸宗派が異なる。信じない者こそ災いである。偉大なる日の審判のために。」”(クルアーン19節34〜37節)

 “イエスが様々な明証をもってやって来た時言った。「本当にわたしは、英知をあなたがたに齎し、あなたがた が論争することの、多少の部分をあなたがたのために、説き明かすためである。それで神を畏れ、わたしに従え。本当に神こそはわたしの主であり、またあなた がたの主であられる。かれに仕えなさい。これこそ、正しい道である。」だがかれらの間の諸派は、仲互いした。これら悪を行う者こそ災いである。苦悩の日の 懲罰のために。」”(クルアーン43章63〜65節)

“マリアの子イエスが、こう言った時を思い起せ。「イスラエルの子孫たちよ、本当にわたしは、あなたがたに(遣わされた)神の使徒で、わたしより以前に、(下されている)律法を確証し、またわたしの後に来る使徒の吉報を与える。その名前は、アハマドである[12]。」だがかれが明証をもって現れた時、かれらは、「これは明らかに魔術である。[13]」と言った。”(クルアーン61章6節)

イエスの奇跡

 “そこでかの女は、かれ(息子)を指さした。かれらは言った。「どうしてわたしたちは、揺籠の中の赤ん坊に話すことが出来ようか。」(その時)かれ(息子)は言った。「わたしは、本当に神のしもベです。かれは啓典をわたしに与え、またわたしを預言者になされました[14]。 またかれは、わたしが何処にいようとも祝福を与えます。また生命のある限り礼拝を捧げ、喜捨をするよう、わたしに御命じになりました。またわたしの母に孝 養を尽くさせ、高慢な恵まれない者になされませんでした。またわたしの出生の日、死去の日、復活の日に、わたしの上に平安がありますように。」”(クルアーン19章29〜33節)

(「出産の吉報」の中では、もっと多くの奇跡について述べられています。)

神の許しにより天から食べ物が与えられた食卓

 “かれら弟子たちが、こう言った時を思い起せ。「マリアの子イエスよ、あなたの主は、わたしたちのために、 (食べ物を)並べた食卓を、天から御下しになるであろうか。」かれ(イエス)は言った。「あなたがたが信者なら、神を畏れなさい。」かれらは言った。「わ たしたちはその(食卓)で食べて、心を安らげたい。またあなたのわたしたちに語られたことが真実であることを知り、わたしたちが、その証人になることを乞 い願います。」マリアの子イエスは(祈って)言った。「神、わたしたちの主よ、わたしたちのために、(食物を並べた)食卓を天から御下しになり、それでわ たしたちへの最初の、また最後の機縁となされ、あなたからの印として下さい。わたしたちに食を与えて下さい。本当にあなたは最も優れた養い主です。」神は 仰せられた。「本当にわれは、それをあなたがたに下すであろう。それで今後もしあなたがたの中で不信心者となる者があれば、われは世の誰にもまだ加えな かった懲罰で、かれを罰するであろう。」”(クルアーン5章112〜115節)

イエスと彼の使徒たち

 “信仰する者よ、あなたがたは神の助力者になれ。マリアの子イエスが、その弟子たちに次のように言った。 「神の(道の)ために、誰がわたしの助力者であるのか。」弟子たちは(答えて)、「わたしたちが神の助力者です。」と言った。そのさいイスラエルの子孫た ちの一団は信仰し、一団は背を向けた。それでわれは、信仰した者たちを助けて、かれらの敵に立ち向かわせた。こうしてかれらは勝利者となったのである。[15]”(クルアーン61章14節)

 “その時われは弟子たちに啓示して、『われを信じ、わが使徒を信じなさい。』と言った。かれらは(答えて)言った。『わたしたちは信じます。あなたは、わたしたちがムスリムであることを立証して下さい。』」”(クルアーン5章111節)

 “それからわが使徒を、かれらの足跡に従わせ、更にマリアの子イエスを遣わし、福音を授け、またかれらに従 う者の胸に博愛と慈悲の情を持たせた。だが禁欲の修道院制は、かれらが自分で作ったもので、われがかれらにそれを指示してはいない。神の喜びを得たいばか りにしたことだが、かれらはそれも守らねばならないようには守っていなかった。それでわれは、かれらの中の信仰する者には報奨を与えた。だがかれらの多く の者は神の掟に背く者たちであった。あなたがた信仰する者よ、神を畏れ、かれの使徒を信じなさい。かれは倍の慈悲を授け、また光明をあなたがたのために設 け、それで(正しい道を)歩ませ、またあなたがた(の過去の罪業)を赦される。本当に神は寛容にして慈悲深くあられる。神の恩恵をかれらが少しも左右出来 ないことを、また恩恵は神の御手の中にあるということを啓典の民は知るがいい。かれの御心に適う者は、それを授かる。本当に神は偉大な恩恵の主である。[16]”(クルアーン57章27〜29節)

 

キリストの受難

 “イエスは、かれらが信じないのを察知して、言った。「神(の道)のために、わたしを助ける者は誰か。」弟子たちは言った。「わたしたちは、神(の道)の援助者です。わたしたちは神を信じます。わたしたちがムスリムであることの証人となって下さい[17]。 主よ、わたしたちは、あなたが下されたものを信じ、あなたの使徒に従います。それでわたしたちを証人たちと一緒に、書きとめて下さい。」かれら(不信者) は策謀したが、神も策謀なされた。だが最も優れた策謀者は、神であられる。神がこう仰せられた時を思い起せ。「イエスよ、われはあなたを召し[18]、われのもとにあげて、不信心者(の虚偽)から清めるであろう。またわれは、あなたに追従する者を、審判の日まで、不信心の者たちの上位におくであろう。それからあなたがたは(皆)われの許に帰り、あなたがたが争っていたことに就いて、われは裁決を下すであろう。”(クルアーン3章52〜55節)

 “「わたしたちは神の使徒、マリアの子マスィーフ(メシア)、イエスを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イエス)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである[19]。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。いや、神はかれを、御側に召されたのである[20]。神は偉力ならびなく英明であられる。”(クルアーン4章157〜158節)

イエスの追従者たち

 “(イエスに関する)真実の知識があなたに下された後、もしかれに就いてあなたと議論する者があれば、言っ てやるがいい。「さあ、わたしたちの子孫とあなたがたの子孫、わたしたちの妻たちとあなたがたの妻たち、わたしたちとあなたがたを一緒に呼んで、神の御怒 りが嘘付き者の上に下るように祈ろう。」誠にこれは、真実な物語である。神の外に神はない。本当に神は偉力ならびなく英明であられる。だがかれらがもし、 背き去るならば、神は悪を行う者を熟知される。言ってやるがいい。「啓典の民よ、わたしたちとあなたがたとの間の共通のことば(の下)に来なさい[21]。わたしたちは神にだけ仕え、何ものをもかれに列しない。またわたしたちは神を差し置いて、外のものを主として崇ない。[22]」それでもし、かれらが背き去るならば、言ってやるがいい。「わたしたちはムスリムであることを証言する。」”(クルアーン3章61〜64章)

 “「神こそは、マリアの子メシアである。」と言う者は、確かに不信心者である。言ってやるがいい。「誰が神 に対し、少しでも力があろうか。もしかれがマリアの子メシア、その母と地上の凡てのものを滅ぼそうと御考えになられたら、誰が制止出来よう。」天と地、そ してその間の凡てのものは、神の大権に属する。かれは御考えになられたものを創造なされる。神は凡てのことに全能であられる。ユダヤ人やキリスト教徒は言 う。「わたしたちは神の子であり、かれに愛でられる。」言ってやるがいい。「それなら何故かれは、あなたがたの罪を罰されるのか。いや、あなたがたは、か れが創られた人間に過ぎない。かれは、御望みの者を赦し、御望みの者を罰される。」天と地、そしてその間の凡てのものは、神の大権に属し、またかれこそは 帰り所なのである。”(クルアーン5章17〜18節)

 “「神こそは、マリアの子メシアである。」と言う者は、確かに不信心者である。しかもメシアは言ったのであ る。「イスラエルの子孫よ、わたしの主であり、あなたがたの主であられる神に仕えなさい。」凡そ神に何ものかを配する者には、神は楽園(に入ること)を禁 じられ、かれの住まいは業火である。不義を行う者には援助者はないのである。「神は三(位)の一つである。[23]」と言う者は、本当に不信心者である。唯―の神の外に神はないのである。もしかれらがその言葉を止めないなら、かれら不信心者には、必ず痛ましい懲罰が下るであろう。かれらは何故、悔悟して神に返り、その御赦しを求めようとしないのか。誠に神は寛容にして慈悲深くあられる。”(クルアーン5章72〜74節)

 “ユダヤ人はエズラを、神の子であるといい[24]、 キリスト教徒はメシアを、神の子であるという。これはかれらが口先で言うところで、昔の不信心な者の言葉を真似たものである。かれらに神の崇りあれ。かれ らは(真理から)何と迷い去ったことよ。かれらは、神をおいて律法学者や修道士を自分の主となし、またマリアの子メシアを(主としている)。しかしかれら は、唯一なる神に仕える以外の命令を受けてはいない。かれの外に神はないのである。かれらが配するものから離れて(高くいます)かれを讃える。”[25](クルアーン9節30〜31章)

 “あなたがた信仰する者たちよ、律法学者や修道士の多くは偽って人びとの財産を貪り、(かれらを)神の道から妨げている。また金や銀を蓄えて、それを神の道のために施さない者もいる。かれらに痛ましい懲罰を告げてやれ。”(クルアーン9章34節)

イエスの復活

 “啓典の民の中、かれの死ぬ前にかれを信じることのない者は、一人もいない[26]。審判の日において、かれはかれらにとって(不利な)証人となろう。”[27](クルアーン4章159節)

 “本当にかれ(イエス)は、(審判の)時の印の一つである。だからその(時)に就いて疑ってはならない[28]。そしてわれに従え。これこそ、正しい道である。”(クルアーン43章61節)

審判の日のイエス

 “神がこう仰せられた時を思い起せ。「マリアの子イエスよ、あなたとあなたの母が与えられた、われの恩恵を 念じなさい。われは聖霊によってあなたを強め、揺り籠の中でも、成人してからも人びとに語らせるようにした。またわれは啓典と英知と律法と福音をあなたに 教えた。またあなたはわれの許しの許に、泥で鳥を形作り、われの許しの許に、これに息吹して鳥とした。あなたはまたわれの許しの許に、生まれつきの盲人と 癩患者を癒した。またあなたはわれの許しの許に、死者を甦らせた。またわれはあなたが明証をもってイスラエルの子孫の許に赴いた時、かれらの手を押えて 守ってやった。かれらの中の不信心な者は、『これは明らかに魔術に過ぎない。』と言った。”(クルアーン5章110節)

 “また神がこのように仰せられた時を思え。「マリアの子イエスよ、あなたは『神の外に、わたしとわたしの母とを2柱の神とせよ。』と人びとに告げたか。[29]」 かれは申し上げた。「あなたに讃えあれ。わたしに権能のないことを、わたしは言うべきでありません。もしわたしがそれを言ったならば、必ずあなたは知って おられます。あなたは、わたしの心の中を知っておられます。だがわたしはあなたの御心の中は知りません。本当にあなたは凡ての奥義を熟知なされています[30]。 わたしはあなたに命じられたこと以外は、決してかれらに告げません。『わたしの主であり、あなたがたの主であられる神に仕えなさい。』(と言う以外には) わたしがかれらの中にいた間は、わたしはかれらの証人でありました。あなたがわたしを御呼びになった後は、あなたがかれらの監視者であり、またあなたは、 凡てのことの立証者であられます。あなたが仮令かれらを罰せられても、誠にかれらはあなたのしもべです。またあなたがかれらを御赦しなされても、本当にあ なたこそは、偉力ならびなく英明であられます。[31]」 神は仰せられよう。「これはかれら正直者が、正直ゆえに得をする日である。かれらには川が下を流れる楽園があり、永遠にその中に住むであろう。」神はかれ らを喜ばれ、かれらもまたかれに満悦する。それは大願の成就である。天と地と、その間の一切の事物は、神の大権に属する。かれは凡てのことに全能であられ る。”(クルアーン5章116〜120節)



[1]「慈悲深き御方」は、クルアーンの中で見出すことの出来る神の御名の一つです。

[2]イエスの存在とは、神がご自身の力を人々に示す印の一つです。イエスはまた、神が人々を死後に復活させることが出来るという印でもあります。無から何かを創 り出すことの出来る者は、それらを死から蘇らせることも出来るからです。また彼は、終末が近づくと現れる反キリストを倒す、審判の日の印でもあります。

[3]アーダムが両親なくして神によって創造されたのと同様、イエスの誕生も父の存在がない、母親だけによるものでした。神が何かを起こしたいときには、「在れ」と言うだけで、それは存在することになります。神は全能者であるからです。

[4]預言者とは、人間が到達することの出来る最も高く、最も栄誉ある地位です。また預言者とは、天使ガブリエルを介して神からの啓示を受け取ることの出来る人物のことでもあります。

[5]アダムは神が「在れ。」と言って創造されたのであり、それは父母の存在のないものでした。イエスもまた、神の言葉によって創造されたのです。一人の親によ る通常の誕生ゆえに彼が神聖視されるのであれば、両親がなかったアダムは、より神聖視されなければならないということになるでしょう。しかしアダムは神で はないため、イエスも神ということではなくなります。実際にこの二人は、共に敬虔な神のしもべなのです。

[6] ここが、マリアがイエスを生んだ場所です。

[7]「誠実な婦人」と訳されたこのアラビア語は、最も高い信仰のレベルを表し、これより高い信仰のレベルにあるのは預言者たちだけです。

[8]メシアと彼の敬虔な母は2人 とも食事を摂っていたのであり、これは飲食を必要としない神の行為ではありません。また飲食をする者は排泄もするのであり、これも神の性質ではありませ ん。ここでイエスは、彼に先駆けた全ての誇り高き預言者たちに相似させられています。彼らの教えは全て同じであり、神の聖なる創造物ではないというところ も同じです。人間の中で最も栄誉ある位置は預言者であり、イエスは最も偉大な5人の預言者の一人としても数えられています。33章7節、42章13節参照。

[9]イエスは神に「あれ」と言われただけで存在したため、神の「御言葉」または「魂」とも呼ばれています。アダムとイブ以外の全ての人間は両親から作られたので、 その点に関しては、イエスは特別です。しかしその特性にも関わらず、神ではなく死を迎える生命体であるという点では、他の人々と変わりません。

[10]神以外の全てのものや人は、神の崇拝者であり奴隷です。この節はメシアが自らを神ではなく神の崇拝者に過ぎないということを主張したことを証明しています。メシアは神の崇拝者であることを、決して軽蔑したりはしませんでした。なぜならそれは全ての人々が欲する最高の名誉だからです。

[11]もしイエスが父親なしに産まれたことで神になるのなら、アダム、イブ、最初の動物たち、山や水を含むこの地球など、イエスのように先祖なしで産まれた全てのものが神ということになります。しかしイエスは地球上の全てのもののように、神が「あれ」と言ったときに存在したのです。

[12] 預言者ムハンマドの別名。

[13]これは二人の預言者イエスとムハンマド(彼らの上に平安あれ)のことを指しえます。彼らが神の教えを人々に説いたとき、彼らは魔法を使っていると責められたのです。

[14]預言者の地位は、人々が到達することができるものの内、最も高く名誉ある地位です。預言者とは天使ガブリエルから神の啓示を受け取る者であり、「使徒」と は神から啓典と法を授かる預言者のことをいいます。イエスは使徒と預言者の両方になることで、最も誇り高い位置を得たのです。

[15]信者の勝利はイスラームの教えと共に訪れたのであり、その勝利には肉体的な意味と精神的な意味があります。イスラームはイエスについての疑いを取り除き、 彼が預言者であることを証明しました。それが精神的な勝利です。またイスラームの広まりと共に、イエスの教えを信じた者達に避難の場と敵と闘う力を与えました。それが肉体的な勝利です。

[16]神 は育った環境や人種に関わらず、誰であろうとかれがお望みになる者に導きを与えられます。人々が信じるとき、神は彼らに栄誉を与え、彼らを他の人々よりも 高い位置に上げて下さいます。そして人々が不信仰に陥るとき、たとえ彼らがそれ以前には栄誉高い人々であったとしても、神は彼らを蔑まれるのです。

[17]クルアーンの中でイエスの弟子たちに与えられた名はアル=ハワーリーユーンです。この言葉は白色のように純粋なものを表します。また、彼らは白い衣服をきていたという伝えもあります。

[18]イエスは睡眠の状態の中で起こされました。ここで使われている「ワファー」という言葉は睡眠と死の二つの意味があります。アラビア語では、睡眠は小さい規模での死と呼ばれます。そして6章60節や39章42節では「ワファー」と言う言葉が死ではなく、眠りという意味で使われています。4章157節の中でイエスの磔、殺害は否定されており、全ての人間が死ぬことになっていますが、イエスは地上に戻ってくるので、この節での「ワファー」のただ一つの解釈は、眠りということになるのです。

[19]イエスではない誰か別の人がイエスに似せられたのであり、磔にされたのはイエスではありませんでした。いくつかのクルアーンの解釈によると磔にされたのは、イエスの弟子の一人であり、自らをイエスに似せ、イエスが天から復活するために自ら殉教を選んだとされています。

[20]イエスは魂と肉体が昇天しただけであり、死んだわけではありません。彼はまだ天に住んでおり、終末の時に地上に戻ってきます。地上での役割を果たした後に彼は死ぬのです。

[21]これが全ての神の使徒の教えであり、考えでした。なのでこの記述は一つの集団だけで信じられているものではなく、神を崇拝したい全ての人の共通の教えなのです。

[22]もし人が他人に従い、神に逆らうのであれば、彼はその人を神の代わりに主とみなしたことになります。

[23] 三位一体説のこと。

[24]全てのユダヤ教徒がそれを信じているわけではありませんが、否定できているわけでもありません(5章78〜79節を見てください)。ある罪が許容され広められているのであれば、宗教内の人々すべてが責任を負います。

[25]律法学者とは知識のある人々であり、修道士とは儀礼や崇拝行為に没頭している人々のことです。両者とも宗教における先導者であり模範ですが、その影響力によって人々を過ちに導く可能性もあります。

[26]「かれの死」の「かれ」はイエスのこと、または啓典の民の誰かのこと、いずれをも指しえます。もしそれがイエスのことを指すのであれば、全ての啓典の民 が、イエスの地上での復活の際、その死の前にイエスを信じるようになります。そこでイエスは自分が神や神の子ではなく神の使徒であることを証明し、人々に 神だけを崇拝し、イスラームのもとに神だけに服従するよう呼びかけます。一方、もしこの代名詞が啓典の民の内の一人を指すのであれば、イエスは神ではなく 神の預言者であることを、全人が自分が死ぬ前に確信することになる、という意味になります。しかしその確信も、意思の自由からではなく、厳罰の天使を見た ときに起こることなので、当人には何の利益ももたらさないのです。

[27] 5節116〜118節参照

[28] イエスの復活は、審判の日が近いことの印となります。

[29]神と共に他のものを崇拝することは、それらを神の代わりに崇拝していることと同じです。両者とも崇拝が神以外の何かに向けられているというこですが、神は崇拝されるべきただ一つの存在なのです。

[30]イエスが言ったように、イエスが自分や自分の母親が崇拝されるように呼びかけてはいないことを、神はご存知です。この質問はイエスやマリアを崇拝する人々 に、本当に彼らに従うのなら、イエスやマリアを崇拝する慣習をやめるべきではないか、と投げかけているのです。もしその慣習をやめないのであれば、彼らは 終末の日にはイエスに見捨てられるということであり、また彼らはイエスに従っていたのではなく、ただ自分の好みに従っていただけということになります。

[31]別の言葉で言えば、こうなります:「あなたは誰が罰せられるべきかご存知なので、その者を罰されるでしょう。そして誰が赦されるべきなのかもご存知なの で、その者をお赦しになるのでしょう。本当に、あなたは罰する力のある強者であり、全てのことを正しく収められる英明者であるので、赦しに値する者をお赦 しになるのです。」

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