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どのようにしてムスリムになるか?
ムスリムになるには、特別な宗教儀式や慣例などがあるわけではありません。また特定の場所や観衆の面前で行うこともありません。これはイスラームにおいて、人がいかなる仲介役も介することなくその主との直接的な関係を有している事実によるものです。
またムスリムになるのに、非常な努力を払う必要などもありません。ただ簡単な幾つかの言葉を、その意味を理解しつつ発するだけでよいのです。
ムスリムになろうと決心した者は、イスラームの範疇に足を踏み入れるためにシャハーダターン[1]を口にしなければなりません。それは以下の通りです:
「アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー、ワ・アシュハドゥ・アンナ・ムハンマダン・アブドゥッラーヒ・ワ・ラスールフ。」
この意味は次の通りです:私は、アッラー以外に真に崇拝すべきものがないことを証言します。そしてムハンマドはアッラーのしもべであり、かれの使徒であることを証言します。
この言葉こそがイスラームに入るにあたっての鍵です。この証言をすることで、人はイスラーム以外の宗教や信仰との関係を断ち切るのです。そしてこの証言によって、人は全ムスリムが享受する諸権利を得る一方、全ムスリムに課されている諸義務行為も果たさなければならなくなります。また彼の財産や名誉、生命は、イスラームが定めた正当な理由が伴わない限り、保証されます。ムスリムはその表面的な行為によって判断されるべきである、というのは真実ですが、その心中にある真実はアッラーこそがご存知です。それではシャハーダターンの意味とは何でしょうか?
シャハーダターン(二つの信仰証言)
「ラー・イラーハ・イッラッラー」の意味
これは一般にタウヒード[2].の言葉、と呼ばれるものです。アッラーは実にこの概念ゆえに全宇宙の創造を行われ、天国と地獄を創られました。アッラーはこう仰っています:
-そしてわれ(アッラーのこと)はジンと人間を、われを崇拝させるべくして創造したのだ。,(クルアーン51:56)
アーダム(アダム)から最後の使徒ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)まで、全ての預言者と使徒がその民をいざなったのが、この信仰でした。アッラーはこのように仰っています:
-あなた以前にわれら(アッラーのこと)が遣わした使徒の内で、「われ(アッラーのこと)の他に真に崇拝すべきものはない。だからわれを崇拝するのだ。」という啓示を与えなかった者はいなかったのである。,(クルアーン21:25)
シャハーダの意味
「アッラー以外に真に崇拝するべきものはなし」という意味の第一の証言には、以下のような意味が含まれてきます:
- アッラーこそが真に崇拝に値する存在であるということ[3]。アッラーはこう仰っています:
-アッラーにこそ、天にあるものも地にあるものも属しているではないか?アッラーを差し置いて(彼らがその)併置者(と見なすもの)を拝している者たちは、(実際のところ)それらに従っているわけではない。彼らは実に(根拠なく)憶測しているに過ぎない。彼らは嘘をついているのである。,(クルアーン10:66)
- アッラーこそが全存在の創造主であるということ。アッラーはこう仰っています:
-かれこそがアッラー、あなた方の主である。かれ以外に崇拝すべきものはない。かれは全ての創造主であるのだ。ゆえにかれを崇拝せよ。かれは全てにおいて(そのしもべから)委任されるべきお方なのである。,(クルアーン6:102)
- アッラーこそが全存在の真の所有者であり、その諸事を司る唯一のお方であること[4]。アッラーはこのように仰っています:
-かれにこそ創造と全ての権限は属する。万象の主アッラーの崇高さよ。,(クルアーン7:54)
- かれに美名と属性が属すること[5]。かれはいかなる不完全性からも無縁なお方です。アッラーはこのように仰っています:
-そしてアッラーにこそ美名が属するのであるから、それをもってかれに祈願するのだ。かれの美名をないがしろにするような輩は放っておくがいい。いずれ彼らは自分たちが行っていたところのもので報いを受けるだろうから。,(クルアーン7:180)
シャハーダの諸条件
この証言はただ単に発声するだけでは、アッラーに受け入れられるものとなるに十分ではありません。それは天国の扉への鍵ではあっても、それを有効に使用することが出来るようになるよう、ある一定の溝を刻み込まなければならないのです。この証言がアッラーに受け入れられるものとなるための条件は、以下に示す通りです:
1. 知識:これは、アッラーを差し置いて崇拝されているあらゆる存在が、虚妄であることを知ることです。預言者や使徒、天使などであろうと、アッラー以外に真に崇められるべき存在はありません。サラー(礼拝)や祈願、犠牲や誓願など、あらゆる種類の崇拝行為はアッラーにのみ向けられなければならないのです。
ゆえに、何らかの崇拝行為をアッラー以外の何かに向けるという行為は、一種の不信仰となるのです。これは例え証言の言葉を口にしていたとしても、関係ありません。
2. 確信:つまり二つの証言の意味を、心から確信することです。確信の反対は疑惑ですが、この信仰において疑惑やためらいなどがあってはなりません。アッラーはこう仰いました:
-信仰者というものはアッラーとその使徒を信仰し、その後(その信仰に)疑念を抱くことなく、財と生命をかけてアッラーの道に奮闘する者たちのことである。彼らこそは真に信仰する者たちである。,(クルアーン49:15)
3. 受容:証言の内容は完全に受け入れ、それを拒む気持ちがあったりするべきではありません[6]。 アッラーはこう仰いました:
-彼らは実に「アッラーの他に真に崇拝すべき何ものもなし」と言われれば、奢り高ぶったものだったのだ。 ,(クルアーン37:35)
4. 服従:証言の内容が要求することに従い、それに沿って行動することです[7]。そしてアッラーが命じることを行い、かれが禁じることを回避しなければなりません。アッラーはこう仰いました:
-そしてアッラーのみに真摯に向かって服従し、イフサーン[8]の徒である者は堅固な取っ手を握り締めた者。そして全ての物事の結末は、アッラーへと還り行く。,(クルアーン31:22)
5. 真摯さ:証言を口にするにあたって、真摯でなければなりません [9]。アッラーはこう仰っています:
-彼ら(アッラーの使徒の命に背いて出征しなかった者たち)はその舌で、心にもないことを語っている。,(クルアーン48:11)
6. 崇拝の誠実さ:つまり全ての崇拝行為を、アッラーのみに誠実に捧げることです[10]。アッラーはこう仰いました:
-そして彼らは純正な宗教の徒として、彼らの宗教をアッラーのみに真摯に捧げて崇拝し、サラー(礼拝)を行い、ザカー(浄財)を施すことしか命じられてはいなかったのだ。,(クルアーン98:5)
7. 敬愛:この証言をする者は、その証言とそれが要求するもの全てを愛さなければなりません。つまりアッラーとその使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)、そしてその正しいしもべたちを愛し、彼らに敵対する者には敵対する必要があります。また例えそれが自分の私欲と一致しないことであっても、アッラーとその使徒への愛情を何よりも優先することが求められます。アッラーはこう仰いました:
-言え、「あなた方の父親や子息、兄弟姉妹や配偶者、近親やあなた方の稼いだ財産、またあなた方が不景気になることを恐れている商売や、あなた方の意に適った住まいがアッラーとその使徒、そしてその道における奮闘よりもあなた方にとって愛すべきものであるのならば、アッラーが事を決行されるまで待つがよい。アッラーは放縦な民をお導きにはなられないのだ。」,(クルアーン9:24)
またこの証言は、アッラーのみが法を定める権威を有するということを認めることにも繋がります。崇拝行為に関することであろうと、個人あるいは社会間における人間関係に関することであろうと、そこに違いはありません。
何かを合法としたり非合法としたりする権威は、アッラーにのみ属します。またその使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、アッラーのいかなる命令も隠蔽することがありません。アッラーはこう仰いました:
-使徒が命じた物事を行い、彼の禁じた物事を避けよ。,(クルアーン59:7)
アッラーへの信仰がもたらす諸利益
1.シャハーダの諸条件を満たす者は、自分自身を人間崇拝から解放し、その崇拝行為の全てを人間の創造主へと献じます。このことは人間を、真の独立性へといざないます。アッラーはこのように仰っています:
-言え、「あなた方がアッラーを差し置いて祈っているものは、もしアッラーが私に何らかの災厄をお望みになられた時、その災厄を除去することが出来るとでも言うのか?あるいはかれが私にご慈悲をお望みになられた時、そのご慈悲を(実現させぬよう)押し留めることが出来るとでも?」言え、「私にはアッラーだけで十分だ。アッラーにのみ全てを委ねる者には、かれにこそそうさせるがよい。 ,(クルアーン39:38)
2.心と意識、そして精神の平安。アッラーはこう仰ります:
-(彼らとは)信仰し、その心がアッラーのズィクル(唱念)で平穏である者たち(である)。アッラーのズィクルによって心が平穏にならないことがあろうか。,(クルアーン13:28)
3.苦境の折に、立ち返ることが出来る誰かがいるということを知ることによって得られる安心感。アッラーはこのように仰っています:
-そして海上であなた方に災厄が降りかかれば、あなた方はかれ(アッラー)のみに祈願する。しかしいざ(かれが)あなた方を陸上へお救いになれば、あなた方は(かれから)背く。実に人間とは忘恩の徒である。,(クルアーン17:67)
4.アッラーを崇拝することによって得られる精神的喜び。これは人がその実現を追求する究極的な目的(つまり天国)は、死後にしか到達出来ないという事実に基づいています。それでムスリムは善行や、全ての崇拝行為を純粋にアッラーのみに捧げることによって、その目的達成のために絶え間なき努力をするのです。アッラーはこう仰ります:
-言え、「私のサラー(礼拝)も献身も、生も死も、ひとえに万有の主アッラーゆえである。かれにはいかなる共同者もない。私はこのように命じられたのだ。そして私はムスリム(アッラーの教えに従って受け入れた者)の先駆けである。」,(クルアーン6:162)
5.アッラーを信仰する者に与えられる導きと成功。アッラーはこのように仰っています:
-…そしてアッラーを信仰する者は、かれがその心をお導き下さる。,(クルアーン64:11)
6.善行と、人々へイスラームを伝達することへの愛情。アッラーはこのように仰りました:
-それで小蟻1匹の重さほどでも善行を行った者は、(その日)それを目の当たりにする。,(クルアーン99:7)
また使徒ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言っています:
「誰かを一つの善行へと導く者は、実際にそれを行ったようなものである(つまり彼はその行為の報奨を手にする)。」(アッ=ティルミズィーによる伝承:2670)
そしてアッラーを信仰する者は、アッラーが私たちに仰られる全てのことも信じなければなりません。それらの物事について、以下に見ていきましょう。
[1]「シャハーダターン」とは語学的に、信仰上の二つの証言という意味です。
[2]「タウヒード」とは、アッラーの唯一性を表す概念です。
[3]これが「タウヒード・アル=ウルーヒーヤ」、あるいは崇拝行為におけるアッラーの唯一性、と呼ばれる概念です。
[4] 2番目と3番目のポイントは「タウヒード・アッ=ルブービーヤ」、あるいは主性におけるアッラーの唯一性として知られているものです。つまりアッラー以外には創造主も、供給主も、管理者も、所有者も存在しないという概念です。
[5]この概念は「タウヒード・アル=アスマーゥ・ワッ=スィファート」として知られるものです。アッラーには美名と属性が属し、かれに相似したり比肩したりするいかなるものも存在しません。
[6] ムスリムとなるには、証言の意味を理解して確信をもって信仰するだけでは十分ではありません。厳密にはそれを発声して受容し、ムスリムとなることを受け入れる必要があります。
[7] ムスリムとなるには、証言の意味を理解して確信をもって信仰し、それを発声して受容し、ムスリムとなることを受け入れるだけでは十分ではありません。更にそれに則って行動する必要があるのです。
[8] 「イフサーン」とは、語学的には何かをよい形で行う者を意味しますが、ここでは預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の手法に則ってアッラーゆえに真摯に善行を積む者の事を指しています。アッラーはここでかれへの服従と善行を並置させていますが、それらを実践する者は証言という「堅固な取っ手を握り締めた者」となるでしょう。
[9] 上記の全ての条件を満たしていたとしても、心の内に不信仰を潜めていたとしたら、ちょうど偽善者のような状態になってしまいます。
[10] 上記の全ての条件を満たしていたとしても、死人に向かって何らかの願いを叶えてもらおうと祈ったりするなど、崇拝行為をアッラー以外の何かに向けていたら純粋なアッラーの崇拝を行っていることにはなりません。